恋人3、Sneezy
伯爵家の紋章入りの指輪のお陰か、僕は無碍に追い返される事はなかった。
とても感じの悪い白髭の執事に不躾な質問をいくつかされた後、僕は屋敷の中へと案内された。
屋敷に入るとまずは天井が高くて広い、玄関ホールが僕を出迎えてくれた。
美術館の様に沢山の絵画や銅像、壷が飾られてあるホールの天井には、目が眩みそうな大きさと輝きを放つシャンデリアが誂えられており、その下には頭を下げた沢山のメイドが綺麗に二列に整列している。
この屋敷のメイドの採用条件にはある一定以上の顔面偏差値が必須なのか、見事に美人しかいない。でもって皆胸が大きい。……この屋敷の人事…いや、伯爵の趣味だろうか…?
彼女達の間に敷かれた、靴で踏むのも躊躇うお高そうな長い長い絨毯の上を、例の感じの悪い老執事と歩く。
「うわぁ…」
初めて訪れた貴族の屋敷のその燦爛たる様子に僕は圧倒されていた。
開いた口が塞がらず間の抜けた顔をしている僕に、その老執事は淡々とした口調で「この屋敷にはメイドだけで三百人いて、屋敷の全使用人の数を含めたら五百はくだらない」と話す。その後長々と続く歴史ある伯爵家の説明には、さらりと自分の仕える主自慢と屋敷自慢が入り「ここはお前の様な人間の来るべき場所ではない」と言う、僕に対する揶揄と毒がありありと込められていた。
『旦那様をお呼びします、しばしお待ち下さい』
ワインレッドのビロードのソファーに腰を降ろし、僕はまた歓声を上げる。
体がソファーの中に沈み込んだ。
こんな柔らかいソファー、産まれて初めて座った!!
こんな豪邸で毎日寝起きして暮らしている人間がこの世に存在するなんて。僕もここで産まれ育った可能性があるのだと思うと、なんだかとても不思議な気分になった。
フカフカのソファーを堪能していると、これまた感じの悪いメイド達が僕に紅茶を煎れてくれた。
まるで借金を踏み倒した人間を見る様な目で僕を見ている、彼女達の冷たい視線にいたたまれない気分になる。
「お気遣いなく」と会釈を混じえて言ってみるが、彼女達が客間から立ち去る気配はなかった。
どうやら彼女達は僕の見張りも兼ねているらしい。
屋敷の金目の物を盗むのではないかと疑われているのだと気付き、とても惨めな気分になった。
(もっとちゃんとした格好をしてくれば良かった…)
ほつれた袖や、擦りきれて膝に穴が開いたズボンに気付き、今更ながら恥ずかしさが込み上げて来る。
何となく穴から覗く膝小僧の上に手を置いて隠してみるが、もう遅いだろう。
どうやら僕のこのみすぼらしい格好がいけなかったらしい。
(貧しいって、改めて悲しい事なんだな。良い服を買う金がなければ、人間的な信用すら買えないんだから…)
今の僕の様な格好をした人間が高級住宅街を歩けば、スリや引ったくり、置き引きと疑われてしまう。
人はまず第一印象で相手を判断する。第一印象とは視覚情報によるものが大きい。
今の僕の様に貧しい身なりをしていれば、「金に困っているのではないか?」と猜疑の目で見られてしまう。「金に困っているのならば、金目の物を盗むのではないか?」とお金を持っている人が不安に思い、警戒するのは別に間違った事ではない。
栄養状態の悪い顔色や体付きをしていれば、飢えている事が伝わってしまう。そうなると今度は「食べ物を盗むのではないか?」と言った疑惑を相手に抱かせてしまい、行く先々の店でも警戒される。そしてそれも別に間違った事ではない。これは仕方のない事なんだ。
「僕は貧しくとも盗みなんてした事がない」と主張してみた所で、赤の他人からすれば僕を信じるに値する要素など何一つないのだ。
そう頭では理解しているが感情は別だ。母さんを亡くした日にまでこんな扱いを受けるなんて、屈辱以外の何物でもなかった。
(失敗したな……)
母が亡くなり気が動転していたとは言え、せめて仕官学校の制服を着てくれば良かった。
仕官学校の制服なら僕の持っている服の中で一番良い服だし、この国の未来を担う学生の証明でもある。あれを着ていればここまで酷い扱いを受ける事はなかっただろう。……不審者として、学校に通報される可能性はあるが。
バタン、
その時、部屋に入って来た黒髪の男にメイド達の顔付きが変わった。
メイド達のその色めき立った表情に、妙に白けた気分になってしまう。確かに女受けの良さそうな顔をした美丈夫だが、ここまであからさまに態度が違うと何だか女性不信になっちゃいそう…。まぁ、顔だけの問題じゃないんだろうけどさ…。
父が現れる前に部屋にやってきたその男が、腹違いの兄のイルミナートだった。
『乞食、金を恵んで貰いに来たのか』
僕を見るなり口を開いた兄の第一声がそれだった。
『な……、』
あんまりな言葉に思わず言葉を失った。
酷い事を言われるだろうとある程度は覚悟をしてはいたが、初対面でまさかここまで酷い事を言われるなんて。
しかしヴィスカルディ伯爵の正妻とその息子からすれば、僕と母は所詮夫の浮気相手とその子供でしかない。
自分が伯爵家の人達に歓迎されないだろうと言う事は覚悟していたつもりだったが、ショックは隠せない。
でも、僕はこの家の財産も何も望んでいない。
僕はただ、あの人に母さんの葬儀に顔を出して欲しいだけなんだ。
僕の願いは本当にそれだけだった。
母さんは最後、僕に手を伸ばしながら「やっと会えた」と言って微笑んだのだ。
『母さん?』
骨と血管の浮いた痛々しい手をギュッと握り返す。
もう力の入らない冷たい手で、僕の手を握り締めながら彼女が呟いた言葉は、目の前にいる息子 の名前ではなかった。
恐らくあの時、母はもう目が見えていなかった。
『ユーリ……』
僕の手を震える手で握り締めながらそう呟くと、幸せそうに微笑みながら彼女は逝った。
僕はすぐに「ユーリ」が誰なのか判った。
―――ユーリウス・エルベリオ・マルロ・バルト・バリエ・フォン・ヴィスカルディ。――…父の名前だ。
その時になって、僕は自分が大きな間違いを犯していた事に気付いた。
僕がしなければならなかったのは試験勉強ではなかった。
僕がしなければならなかったのは、父や顔も知らない兄を超える事でもなかった。
勉強なんていつだって出来た。あの時、僕には僕にしか出来ない事が確かにあったのに。何故それに気付く事が出来なかったのか。
―――僕は母さんが父さんに会いたがっている事に気付くべきだったんだ。
彼を恨んでいたのは僕だけで、母さんはそうじゃなかった。
いや、本当は気付いていた。
僕が自分達を捨てた父を罵ると、いつだって彼女は悲しそうな顔をしていたから。
(でも、そんなの許せなかった……)
そりゃ貴族社会じゃ主が使用人に手を出して孕ます事なんて、別に珍しい事じゃないのかもしれない。
でもその後が酷い。
身重の母から住む場所も仕事も奪って、ゴミみたいに捨てるなんてあんまりじゃないか。せめてその後の生活をほんの少しでも保障してくてくれたら、母さんも僕もこんなに苦労する事はなかったのに。
そうすれば母さんだって、もっと長生きする事も出来たかもしれないのに。
今の母の姿を見て一体誰が信じるだろう。彼女が過去、美人しか相手にしないと言う噂のヴィスカルディ伯爵から、熱烈な求愛を受けた女性だと。
かつての美貌はもはや今の彼女の相貌から垣間見る事は出来なかった。
骨の上にそのまま張り付けた様な皮膚はカサカサで、髪は薄く、所々頭皮が覗いている。そんな老婆の様な母の亡骸に、彼女の年齢を思い出してまた涙が溢れた。
あんな酷い男の事を母がまだ愛しているなんて、そんな事絶対に許せなかった。沢山苦労をしてきた彼女の息子の僕だから、その苦労を間近で見て来た僕だからこそ認める訳にはいかなかった。
今思えば、だからこそ僕は躍起になって士官学校に入ろうとしていたんだと思う。
そうすればいつかこの国の中枢で、名前しか知らない父と兄に顔を合わせる事があるだろうから。
父が国王陛下どころか、諸外国の王侯貴族にまで恐れを抱かせる程冷酷で有能な宰相だった言う事。腹違いの兄もまた優秀な男で、父の後釜を引継ぎ、リゲルブルク歴代最年少の宰相に就任したと言う事。その話を耳にした時、恐らく僕の決意は固まった。
この国は身分が低くても、国籍がなくても、有能でさえあれば這い上がるチャンスが転がっている。
とは言っても、天 から垂らされた糸はとても細く、数にも限りがある。
僕はその細くて頼りのない糸をこの手で掴んだ。
(宰相イルミナート……)
この糸を必死に登って這い上がった先、――…頂点 にあいつ等がいる。
―――絶対に負けない。いつか必ずあんた達を越えてみせる。
兄が宰相なら、僕は大臣辺りになってやる。それで彼の仕事を引っ掻き回してやるのも良い。
そうして何か嫌味の一つでも言ってやるんだ。
それが僕を女手一つで育ててくれた母さんへ対して、唯一の報いになる事だと思っていた。
正妻の息子よりも母さんの息子である僕の方が優秀だと、僕の人生を懸けて証明する。それが一番の復讐になると思っていた。それが僕の僕なりの復讐で、生きる目標でもあった。
(でも、そうじゃなかったなんて……)
自分の人生の基盤がガラガラと音を立てて崩れて行く。
―――僕は最後、母さんにユーリウスを会わせてやれなかった事を後悔した。
僕はその子供じみた感情を捨てて大人になるべきだった。
そして彼を引っ張ってでも母の病床に連れて来るべきだったんだ。
(でも、僕にはそれが出来なかった)
出来なかったから、今僕はここに居る。
せめて彼に母さんの葬式にだけでも来て貰いたい。せめて最後に母さんに会って欲しい。本当にただそれだけだった。
そうじゃなければ、僕も頼まれたってこんな所に一生顔を出す事なんてなかっただろう。
自分の感情で許せる許せないと言ったら正直許せそうにはないが、……それでもヴィスカルディ伯爵は母さんの愛した人だ。伯爵はただの遊びだったのかもしれないが、母さんは彼を死ぬまで愛していた。
だから彼が最後に母さんに別れの挨拶をしてくれたら、恨み言を言う事もしないつもりだった。今後どこかで顔を合わせる事があっても、今まで考えていた様な復讐も嫌がらせもしないつもりだった。今まで通りただの赤の他人に戻るつもりだった。
―――なのに、
(乞食だって……?)
恐らくこの人が僕の腹違いの兄だろう。
この大陸で彼の様な黒髪の人間は、高貴な産まれの者がほとんどだ。
そして、――…あまり認めたくないが、目の前の男はどこか自分に似ている。
冷たいレンズの向こう、理知的な瞳の奥にあるその陰翳な影が自分の物と良く似ていた。
底冷えする様な、暗い飢餓感。
僕が想像も出来ないくらい豊かな生活を送ってきただろうこの男が、一体何をそんなに渇望しているのか僕には判らない。
―――でも、一目会った瞬間判った。
僕にはこの人と同じ血が半分流れてる。
この人は僕と良く似てる。
『確かにこれは巷に溢れた偽物ではない、伯爵家の指輪だ。うちの紋章だけでなく、父が伯爵家の当主になった年月日が入っている。偽物にはない、この家の者にしか解らない暗号もな。――で、どこで手に入れた?盗んだのか?』
兄の嘲るような冷たい目に、僕はまたしても返答も出来ない程のショックを受けた。
(僕が馬鹿だった……)
もしかしたら、ほんの少しだけだけど「会いたかった」と言って僕を抱き締めてくれるんじゃないかって、本当に本当にほんのちょっぴりだけだけど期待してたんだ。
嘘でも社交辞令でも良い。
母を失くし、自分の人生を根底から覆され、今一人で立っているのもやっとの僕は、薄っぺらい物でも良いからどこかで慰めの言葉を求めていたんだと思う。
―――しかし、その男は更に追い討ちを掛けて来る。
『そんなんじゃ……ありません。僕はただ伯爵に、母の葬儀に出て欲しいだけなんです。母は最後までヴィスカルディ伯爵に会いたがっていました。……母さんが最後に呼んだのも、彼の名前で、』
『ああ、その手には乗りませんよ』
『え……?』
『多いんですよねぇ、やたらめったら人を殺して同情を買い、金を恵んで貰いに来る乞食達が。先日も母を亡くした設定で、自分の足を潰してやってきた男がいましてね。流石に自分の足を自分で潰した根性には驚かされたので幾らか金は恵んでやりましたが』
やれやれと肩を竦めるに、僕はソファーを立つ。
こんな所で泣くつもりはなかったし、涙を見せるのも不本意だったが、既に目の前の男の顔が歪んでいた。
『本当なんです!!信じて下さい!!』
『で、どこの売女の娘だ?悪いがお前に恵んでやる金はないぞ』
『本当なんです!!僕の母さんは、昔ここで働いていて!!』
『イベール、本日の乞食は随分と演技派だと思わないか?涙ぐんでいるぞ』
『そうですね、坊ちゃん』
感じの悪い例の執事と嗤い合う男に、いつの間にか握りしめていた両の拳が震える。
『お願いです、ヴィスカルディ伯爵に会わせて下さい!!僕はお金なんて1Rマルクもいらない!!本当に、最後に母さんに会って欲しいだけで!!』
なおも食い下がると、男は投げてはキャッチして遊んでいた指輪をポケットの中にしまい、僕の前までやってきた。
『フン、……みすぼらしい格好をしているが顔は悪くないな。一晩くらいなら付き合ってやってもいい』
『は……?』
薄く嗤いながら、クイっと顎を持ち上げられて僕は呆けた声を出す。
『私に奉仕し満足させる事が出来たのならば、お前の言い値の”お手当て”を払ってやっても良いと言っているんだ』
しばらく男の言っている言葉の意味が判らなかった。
トン、とソファーの上に押し倒されたその時、遅ればせながらこの男が何を言っているのかやっと理解する。
『僕は男だ!!』
ガッ!!
『イルミ様!』
『小僧、坊ちゃんになにを!!』
使用人達の悲鳴が上がる。
相手が爵位を持っている事を忘れ、そのまま床に押し倒すと泣きながら殴りかかった。
『おまえに…、いったい僕の何がわかる!!こんな豪華な屋敷の中で、飢える事も凍える事もなく育ったお前に!!今までお前には寒さで眠れなかった夜なんてないだろう!?寒さで足の骨が痛んで眠れなかった事もないはずだ、痛む足をさすりながらただ朝を待つ夜の辛さも知らないだろう!?明日を迎えられるか判らないまま眠りに付く冬の夜の恐怖も、凍瘡の経験もないだろう!!学ぶ場所にも学ぶ機会にも恵まれ、優雅に暮らして来たお前に!僕と母さんの、一体何が分かる……!!』
男の掛けていた眼鏡が床に落ちて割れた。
彼が僕との血の繋がりどころか、母の死まで疑っている事が悲しかった。
馬乗りになって胸倉を掴み、何度も床に叩き付ける僕をその男は呆然と見上げる。
『そうか、その顔、まさかあのお針子の……?』
―――どうやらこの時になって、彼はやっと気付いたらしい。
『この顔に見覚えがあるのか?……そうだろうね、僕は母さん似らしいから』
自嘲気味に嗤いながら、男の胸元を掴む手に力を入れる。
『兄さん、初めまして。――……僕は18年前、大きな腹のまま無一文でこの屋敷を追い出された女の息子で、あんたの腹違いの弟だ』
伯爵家のお家事情なんて、貧民窟に限りなく近い環境で育った僕には判るわけがなかった。
後々、彼には呆れる様な数の腹違いの兄弟がいる事。そして、腹違いの兄弟を名乗る赤の他人達が日常的に金をせしめに来ている事を知った。
しかし、だからと言って実の母を失くしたその日に自分を乞食扱いし、女と間違えたばかりか、売女扱いして押し倒した男をすんなり許せる程僕は人間が出来てない。
すぐに僕は使用人達の手によって義兄から引き離された。
『何だ、騒がしい』
『旦那様、それが……!』
その時、部屋に入って来た初老の男は使用人達はざわめき出す。
男の顔は、使用人達に服の埃を払われている兄の物と良く似ていた。
『その顔、君はまさか……クロエの……?』
―――ヴィスカルディ伯爵は一目で僕が誰か判ったらしい。
『ヴィスカルディ伯爵、お初にお目にかかります。僕はクロエ・シルヴェストルの息子のエルヴァミトーレです』
亡霊にでも会った様に部屋の入口で立ち尽くす伯爵の前まで行く僕を止める者は、もう誰もいなかった。
彼のこの表情を見るに、僕の顔は母さんの言っていた通り、本当に彼女の娘時代の物と瓜二つだったらしい。
『母のクロエが今しがた亡くなりました。お忙しいとは思いますが、どうか葬儀にだけでも出席してはいただけないでしょうか?』
儀礼的に淡々と事実と用件だけ話す僕に、ヴィスカルディ伯爵は突如抱きついた。
『我が娘よ……!!』
涙ながらに自分の体を掻き抱く伯爵に、何か感傷的な物を感じる前に僕はまた頭が痛くなる。
―――またかよ、畜生。
そんなに女顔なのかな…僕……。
『あの、僕、男です……』
『え……?』
****
それから、色々な事が目まぐるしく動いた。
伯爵は今まで僕等を放置していた事を涙ながらに謝ってくれた。
伯爵は僕の母さんの事を心から愛していたと言う。
母さんの事を愛妾ではなく、正妻にしたいと考えていたそうだ。
しかし周囲の反対を受けて、気が付いた時に母さんは消えていたのだと言う。
それから伯爵…いや、父さんは僕達の事をずっと探していてくれたらしい。
ずっと会いたかったと言われて抱き締められて、何だかとってもこそばゆい気分になった。
にわかには信じられない出来事の連続だったが、彼はその後、自分の誠意を行動で示してくれた。
母さんの葬式を大々的に挙げてくれて、彼女の遺骨をヴィスカルディ伯爵家の墓に入れてくれたのだ。
その後彼はこの屋敷に僕の部屋を作ってくれた。――そして、僕の姓がヴィスカルディになった。
『なんと!あの官僚試験を一発で突破するなんて、流石は私の息子だ!』
父……さん、に褒められるとやはり少しこそばゆい。
『……あんなの文字が書ければ、よっぽどの阿呆でない限り誰でも受かるでしょうよ』
そしてこちらの男はやはり相変らずで、彼の母親――レベッカ伯爵夫人は僕と口を聞こうとすらしなかった。
一目会ったその瞬間から、彼女には僕の存在自体無視されている。
もう僕から彼女に話しかける事はなかったが、別に彼女のその態度を責める気は毛頭ない。
彼女からしてみれば、僕は招かれざる客である事は十二分に理解している。
父さんには悪いが、ここで厄介になるのはルジェルジェノサメール城に僕の部屋が準備されるまでで、城勤めが始まったら出て行こうと思っていた。
『おやすみ、エルヴァ』
『おやすみなさい。あの、それより、……連日、僕と一緒で良ろしいのですか?』
この屋敷に来てから夜は父さんのベッドの中で、今までの時間を埋める様に、眠くなるまで二人で色々語り合うのが日課になっていた。
母さんとの二人の生活や思い出話をすると、父さんはずっとニコニコしながら聞いてくれた。時に涙を流す父に困惑した。
父さんは父さんで、愛のない政略結婚で苦しんでいた話を聞かせてくれた。
だからと言って彼の愛人や子供の数を聞いてしまうと、流石の僕も何も言えなくなってしまうのだが。……貴族の生活は貴族の生活で、僕には想像も出来ない気苦労があるらしい。
『いいんだよ、レベッカとはもう十年以上同じベッドで寝ていない。今更私が彼女の寝室に向かったら悲鳴をあげて衛兵を呼ばれてしまうだろうよ』
女の子と付き合った事もない僕に夫婦間の大人の事情が解る訳もないので適当に頷いてはみたものの、その晩は何故か妙な胸騒ぎがした。
今、隣の部屋にある大きなベッドで一人で寝ているでだろうレベッカ夫人は一体何を思っているのだろうか。妙に彼女の事が気になった。
夕食時、父が財産を僕にも相続すると言う話をした時、彼女は何も言わなかったのだ。
ただ白い能面の様になった顔で、黙って夫を見つめていた。
僕の部屋を作った時や、僕がヴィスカルディの家名を貰った時のようにもっと食って掛ると思っていたので不思議だった。――…いや、その時から嫌な予感はしていたのだ。
―――翌朝、レベッカ伯爵夫人は遺体となって見付かった。
『旦那様、奥様が、奥様が!!』
父さんの寝室にメイド達が駆け込んで来る。
僕等は慌てて隣の寝室に駆け付けた。
天蓋ベッドのフレームの上から、バスローブの腰紐で首を吊った女の死体を呆然と見上げる。
今目の前にある物が信じられなかった。
込み上げて来る吐き気に口元を押さえて蹲ると、父は力ない声で言う。
『君は、何も悪くない。――…全ては私が悪いんだ』
―――それは、ある冬の朝の出来事だった。
『母上……!!』
バン!
一足遅れてイルミナートがレベッカ夫人の寝室に駆け付けた。
珍しく息を切らして部屋に駆けつけた兄がどんな顔をしていたのか、僕には判らない。
暖炉の中で轟々と炎が燃えていると言うのに、何だか妙に寒気がした。
防寒対策に壁にタペストリーや毛皮を掛けても、床に重厚な絨毯を敷いても空気はどこか冷え冷えしている。
初めて来訪した時「冬もさぞかし温かいだろう」と勝手に思っていた伯爵家で向かえる冬の朝は、実はそんなに温い物でもなかった。
―――今となっては母さんが二人で暮らしていた、あの隙間風の酷い小さくて狭い家の方が温かかった様な気がするのだ。
(帰りたい……)
母さんの待ってる家に帰りたい。
でも、母さんはもうこの世にいない。
僕達が住んでいたあの貸家も、僕達が退去するのを機に大家さんが更地にしてしまった。
僕にはもう帰る場所なんてどこにもないんだと気付いた瞬間、涙が溢れた。
(うちに、帰りたい……)
窓の外でははらはらと粉雪が降っていた。
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