2・対向車には勝てなかったよ…。
―――麗らかな午後。
何故か俺はエミリオ王子の写生に付き合っていた。
(写生大会とか小学生の頃を思い出すな、懐かしい…)
俺からしてみれば射精大会ではなく写生大会と言うのが驚きである。
場所はいつも洗濯をしたり、水浴びをしていた小屋の近くにある川だ。
小川のせせらぎが涼しい風とともに吹き付ける中、色鉛筆がスケッチブックの上をサラサラと走る音と鳥達の囀りだけが微かに聞こえる。
絵心には縁のない俺だったが、ウンディーネによってチートスタートなスノーホワイトちゃんは違う。
エミリオ王子に渡されたスケッチブックの1ページは、あっと言う間に写真を貼りつけた様に美しい1ページとなった。
スノーホワイトの手元を覗きこみ、王子は感嘆の声を上げる。
「ふむ、どうやらお前は芸術の才もあるらしいな」
「そんな…、エミリオ様、お世辞でも嬉しいです。どうもありがとうございます」
お馴染みの上向きの矢印が彼の背後に見えて、エミリオ王子の好感度が上がった事を知る。
この世界のからくりを知り、悟りの境地に突入した今となっては、攻略キャラの矢印が何本上がろうが特段焦る事もなかった。
ちなみにエミリオ王子のスケッチブックはと言うとピカソもビックリの仕上がりで、とてもではないが俺にはその芸術性を問う事は出来そうにない。
エミリオ王子のスケッチブックの中では、水の中で顔のある不気味な太陽と月が笑っている。
同じ景色を見て描いていたのに、何故こうも違う物が出来上がってしまうのだろうか。風景画を描いていたはずなのに、何故この王子様の絵は抽象画になっているのだろうか。俺には解らない。
「僕は昔から油絵をやっていてな。城に帰ったらお前の肖像画を描いてやってもいい」
「そ、それはどうも」
この王子様、何だかとっても得意気なご様子で髪の毛をフサッとかき上げながらそんな事をおっしゃっているのだが、――…まさかとは思うが、そのピカソもビックリな前衛的なタッチでスノーホワイトちゃんをお描きになられるつもりなのだろうか?
思わず顔が引き攣るスノーホワイトを見て、エミリオ王子が眉を顰める。
「なんだその嬉しくなさそうな顔は」
「いいえ!とっても嬉しいです!」
正直この王子様の描く肖像画はあまり期待出来そうにないのだが、――…とりあえず礼を言っておく。この人怒ると怖いし…。
また辺りに静寂が訪れた。
(あー、気まずい…)
彼が三浦晃の方に話がある事は分かっていた。
長い長い沈黙の後、彼はスケッチブックに色鉛筆を走らせたまま口を開く。
「聖女殿……いや、アキラの母上は、ご健勝なのか?」
ほれ来たよ。
「た…多分」
「多分とは何だ、多分とは」
「こちらと向こうの時の流れが良く判らないので…」
「そういう事か。……確かにな」
またしても辺りに静寂が訪れる。
「―――…ホナミ殿は、お前にとってどんな母親だった?」
「えっ?お、お袋の話ですか!?」
驚きのあまり、男言葉と女言葉の混ざってしまう俺を見てエミリオ王子は頷いた。
「ああ、聞かせてくれ。お前の向こうの家族の話を」
エミリオ王子からしてみれば、俺達三浦家の人間はあまり好ましい存在ではないはずだ。彼からすれば俺は自分の母親の死因の様な物だだろう。
しかし彼の視線に自分やお袋に対しても敵意の様な物は感じられなかった。
王子の真意が読めずに少し戸惑ったが、それから俺は自分の家族の話をした。――とは言っても、とりとめのない話ばかりだ。
小さい頃は貧乏で四畳一間のボロアパートで3人で暮らしていたとか、春になると姉ちゃんと菜の花やフキノトウ、ツクシ、ぺんぺん草などの食べれる草を探しに河原に行ったとか、母さんの手作り餃子は絶品だとか、餃子の日になるとシゲが必ずうちに来ていたとか、そんな話。
エミリオ王子は色鉛筆をしまうと、とても興味深そうな面持ちで俺の話を聞いていた。
俺(と言うかスノーホワイトちゃん)を見て、眩しそうに目を細めながら相槌を打つ王子様のその様子に、俺の中にある疑問が沸いた。
「…恨んでないのか、俺の事やお袋の事」
「正直に言えば恨んだ日もあった。母上から父上を寝取った聖女も、きっとろくでもない女のはずだと思っていた。しかし、今、お前と話していて思うんだ。きっとホナミ殿は素敵な女性なのだろうな。なんたってお前をたった一人でここまで育て上げた女性なんだ。――…それこそ、父上が全てを捨てて一緒になりたいと思った、素晴らしい女性なのだろう」
「エミリオ…」
そこまでうちのババアの事ベタ褒めされると何だか反応に困るな、おい。
「きっとこの小川の水の様に清らかで、澄んだ心の持ち主なのだろう。――…僕は今、あの枝で羽根を休めている鳥の名を知らない。しかし絶え間なく空から舞い落ちる花弁のように美しい囀りを聞いていると、あの鳥の名を知りたくなってしまう。藍を溶いたように明るいこの空をどの様な様子で羽ばたくのか、それを実際この目で見たくなってしまう。……恐らく、ホナミ殿もあの鳥の様に父上の心を惹きつけて、」
ちょっと待て。エミリオたそ、違う。
多分YOUの想像とうちのBBA、絶対違う。
(うちのお袋なんて、近所のスーパーの食料品に半額シールが付く時間帯を完全に網羅してる様なババアだぞ。食品は基本、半額シールが貼ってある物しか買わないし、たまに出遅れて30%オフの総菜を買った夕方とか、悔し涙を流しながら帰ってくる様なババアだぞ…)
そら洗濯板のアキよりは色気はあるが――、この時期になると家では、上は男物のタンクトップ、下はトランクスでノーブラノーパンがデフォのお袋の姿を思い出して、何だか少し申し訳のない気分になってしまった。
ちなみに何故うちのお袋がジジシャツや男物のトランクスを履いているかと言うと、世の中物騒だからだ。
鍵があってない様なボロアパートで暮らしている内に、玄関には男物の革靴を置いて、傘立ての中には金属バットを紛れさせ、洗濯物には大人用の男性下着を干しておく習慣が我が家に出来た。
せっかく買ったのに着ないなんて勿体ないと言う事で、お袋の家着が男物となり、それがいつしか習慣となった。
祖父母の遺産を相続して買ったオートロックのマンションに住む様になり、お袋がジジシャツやトランクスを履く必要はなくなったのだが、習慣とは恐ろしいものでお袋本人が家では男物の下着を付けていないと落ち着かない女になってしまったと言う流れだった。
「…ルーカスばかりずるい」
頬を掻いていると、エミリオ王子は不貞腐れた顔で何やら呟いた。
「僕だってご相伴に与りたい」
「へ?」
「いつか招待してくれないか、アキラの家のホームパーティーに。僕もアキラの母上の作ったギョーザと言う物が食べてみたい」
「ほ、ホームパーティーなんて大それたもんじゃねぇけど、……ええ、機会があれば是非いらして下さい」
俺が元の世界に帰れると言う保証もないのだ。こっちの世界の住人であるこの王子様が向こうの世界に行けるかなんて解らない。
だから俺は、日本人が良く使う社交辞令を使ったつもりだった。
しかしその日本人の特有の社交辞令が伝わらなかったらしい異世界の王子様は、俺のその言葉を真に受けたらしく相好を崩す。
「早くすべての問題を片づけて、お前の第二婚約者としてホナミ殿に挨拶に行かなければな」
(わ……)
ドキン、
迂闊にもその笑顔にやられてしまった。
(ま、まずい、これは……これは、まずい…)
流石アキの推しキャラだ。
スノーホワイトちゃんの心臓がバコバコ言い出して、俺は高鳴る胸を押さえる。
元々俺はいつも強気なツンデレキャラが見せるギャップに弱いのだ。
「マリアンヌ様がみてる」もずっと白薔薇ファミリー推しだったのに、アニメ4期でツンデレドリルツインテ妹が見せた儚げな一面に落とされて、一気に鞍替えしてしまったと言う歴史がある。
(ど、どうしよう、なんだか塔子 ちゃんに見えて来たぞ…。髪を伸ばして、ツインテにして巻けば、ああ、帰国子女の塔子ちゃんに…!!)
ドッドッドとおかしな音を立てる心臓を押さえ、はあはあ言っていると不思議そうな顔でエミリオ王子がこちらを見ていた。
「どうした、スノーホワイト」
「あ、あの、エミリオ様」
「ん?」
「私の事、お、おっお姉様と呼んでくれませんか!?」
「…は?」
勢いに任せて彼の手をギュッと握ると、エミリオ王子の顔に朱が走る。
「ぼ、僕達は同じ年だろうが!!」
「駄目なら百合子様でいいんで!!」
「ゆりこさま…?誰だそれは」
赤い頬のまま首を傾げ、戸惑いがちにそう呟いたエミリオ王子に、俺は込み上げて来る涙と鼻血をハンカチで押さえた。
(塔子たんだ、塔子だんだ!!……エミリオたそ、リリアンヌ女学園の制服コスしてくれないかな…?)
そうだ、俺てっば今は超絶美少女スノーホワイトちゃんだし!?
俺が主人公の百合子コスをして、二人でスールごっこをすれば良い。ああ、なんてパーフェクトな計画!!
王子に背中を向け、涙と鼻血を押さえながら荒い呼吸を整えている間にも、何やらエミリオ王子の話は進んでいた。
「―――…アミールはスライム、宰相は野菜泥棒と間違われて。あの頭の軽そうな騎士は淫蕩虫 。文官はドライアドに襲われた時の流れで。猟師はウニコーン。で、僕とルーカスは盗賊達のチツノコ」
棘のある口調に振り返ると、エミリオ王子はスケッチブックから顔を上げギロリとこちらを睨んでいる。
(あれ…?)
何故マイスイートスール塔子たそってば、そんなに怖い顔になっているのだ…?
「全員不本意な関係から始まったのは分かった」
「あは、あはははは…」
「改めて聞きたいのだが、お前はあいつらの事をどう思っているんだ?」
「え…?」
王子の問いかけに俺は口ごもる。
(改めて、あいつらは俺にとって何なんだろう…)
リア充爆発しろ!イケメン死ね!とは思うが、別に俺はあいつらの事は嫌いではない。
あまり認めたくはないのだが――、…あいつらの真っ直ぐな好意に戸惑いながらもほだされてしまっている。
少しは休ませろとは思うが、あいつらとするのも別に嫌じゃない。
純粋に気持ち良いので「ちんぽには勝てなかったよ…」的な領域に入りつつある。…と言うよりも、もう既に奥の方までズッポリ入ってしまった感がある。
前世の記憶を取り戻した当初は、男相手に「好きだ」「愛してる」だなんて言われて迫られるのは正直鳥肌モノだった。
しかし最近は、俺なんかの事が好きで好きでどうしようもないあいつ等の事が、可愛く思えてきてしまっているのだ。―――あいつらとの別れを想像して思わず泣いてしまう程度には、俺もあいつらの事が好きなんだろう。
あれだあれ。雄雌関係なく、犬とか猫って懐かれると可愛いく思えてくるだろ?
多分、あの心境に近いんだと思う。
しかし人として嫌いではない、抱かれても不快ではないと言うのが、あいつらが俺に向けている恋愛感情と同質の物かと言われてみればそれは分からない。
「良く分からない……と言ったら怒られますか?」
「怒る」
てへっと笑って誤魔化してみるが、王子は半眼になるだけだった。
「やはりアミールからは何も聞いていないんだな…」
「はい?」
「うちの王族の体質の事だ」
「体質?」
(なんだなんだ、持病持ちとかそういう物か?)
小首をかしげると、エミリオ王子はどこか遠くを見つめながら話しだした。
「うちの王家には掟があり、王家の血を惹く者は誰もがそれを破る事は出来ない」
小川の向こう岸から届いた風が、エミリオ王子の眩い金の髪を揺らす。
「リゲルブルクの初代国王ディートフリート・リゲルが陸に打ち上げられた魚を助け、水の精霊ウンディーネの加護を受けたと言う、うちの創国神話は知っているか?」
「ええ、存じております。ウンディーネの加護を受けたリゲルブルクは清らかな水に恵まれ、緑溢れる肥沃な大地になったのだと」
民達は大岩が転がる不毛な大地を必死に整備して耕して、やせ細った大地でもなんとか育てて収穫できる作物を探し、試行錯誤しながら飢えを凌いでいる貧困国家の姫であるスノーホワイトからすれば羨ましい話だ。
王子はどこか翳りのある眼差しで続ける。
「正確には魚ではない」
「え?」
「ディートフリートが助けた魚そのものがウンディーネだった。恋に落ちた二人は結ばれて、末永く幸せに暮らしたと言う」
「素敵なお話、ですね…」
まるでおとぎ話の世界だ。
夢見る少女スノーホワイトちゃんの瞳がうっとりするのを見て、エミリオ王子は首を横に振る。
「ここまではな。しかしハッピーエンドには続きがある。――…二人の寿命の問題だ」
「あっ」
精霊の寿命は永久に等しい。
水の精霊ならば、この世界の水が全て枯れるその日までその命は続く。
「ディートフリート亡き後、ウンディーネは嘆き悲しみ、涙の雫となって消えた。その後、人の目には見えない精霊に戻った彼女はディートフリートと自分の子供達を、国の行く末を見守った」
「…………。」
悲恋だが、ここまでなら決して悪い話ではない。
しかし王子の表情を見るに何か続きがあるのだろう。――…それも、あまり良ろしくはない類の。
「だからリゲルブルクにはウンデーネの加護がある。…同時にウンディーネの血を引く王族には誓約がある」
「誓約ですか?」
「水界では初めて愛し合った異性が唯一無二の愛を捧げる対象であり、それは絶対でなければならないと言う決まりがある。愛し合い結ばれた二人は水が溶けあう様に一つになって、二度と離れることなく添い遂げなければならない」
なんだなんだ。って事は古女房に飽きても浮気も出来ないのけ?
王様になっても愛人作ったり、こっちの世界の風俗的な所からお姉さんを城に呼ぶ事も出来ないって事か?
大変だなぁ、こいつもアミール王子も。
「僕もアミールもウンディーネの血を引いている。つまりだ、僕等の体は産まれながらに水界の掟を破る事が出来ない様に出来ている」
「え、えっと…、つまり?」
「だから、母上は…、」
そこまで言うと、王子は憂いの濃い顔のまま口を噤む。
(なんだなんだ、もしかしてこいつ等の母上が浮気でもしちまったのか?)
少しハラハラしながら、俺はエミリオ王子が口を開くのを待った。
初めて会った時も思ったが、この王子様、いきなりこんなシリアスな話をぶっこんで来るので根っからのギャグキャラの俺は対応に困る。
「僕もアミールもお前と愛し合っただろう。だから、僕達はお前と一生添い遂げなければ、」
「添い遂げなければ…?」
「…………。」
王子は何も言わなかった。
ただ唇を硬く結んで、俺から目を反らす。
(なんだ、何かあるのか…?)
何だか妙に胸がザワザワした。
何か物言いたげに幹を揺らしている木々達の葉音がまた不吉で、俺の不安を駆り立てる。
「いや、これはお前に言っても詮無き事だ。すまなかったな、こんな話をして」
「はあ…?」
「やはり僕もそれなりに動揺しているらしい…」
最後の呟きは独り言の様だった。
王子はスケッチブックを閉じると、腰を上げる。
ザアアアアアアッ!!
彼が立ち上がり様に踏んだ落葉が、乾いた音を立ててバラバラに砕ける。
恐らく去年か、その前の年の落葉だろう。
小川の上を駆け抜けてこちらまでやって来た森の風が、粉となった落葉を跡形もなくどこか遠くへ吹き飛ばす。
時間が止まったような風の中で俺達はしばらく見つめ合った。
「――――僕は、」
いかんともしがたい表情で、苦しげに眉を絞りながらエミリオ王子は続ける。
「いや、違う。これはお前の問題だ。お前は……アミールの事が好きなのか?」
またこれか。
(どうしたもんかね…)
「お前があいつを好いていると言うのなら、僕は――、」
頭の浮かぶ選択肢。
1「はい、私はアミー様を愛しています」
2「私は、エミリオ様の事を…」
3「すみません、質問の意味が良くわからないわ」
・・・・・。
どうすりゃいいの、これ。
これ、1は絶対アミールルートに入っちゃうんだろ?
2はこいつのルート確定だ。でもこの空気の中で3を選択したら、俺、なんだかこいつに殺されそうな気がする…。
エミリオが悪い奴じゃないのは分かるのだが、俺はなんだかこの王子様が怖い。
ずっとスクールカースト底辺だったキモオタの俺的にも、気の弱いスノーホワイトちゃん的にも、すぐに怒るエミリオ王子はどうも苦手なタイプなのだ。
怒られたくないので2を選んでしまいたい気分なのだが、そうしたらこの王子のルートに入ってしまうのだろう。それも困る。
―――その時、
ヴィイイイン…!!
空間の捻れる音とともに、俺達の前に血塗れの男が現われた。
銀色の髪、緋色の瞳、生気が感じられない白すぎる肌。人智を超えた美貌。
人には決して出る事のない瞳の色と髪色が、彼が人ならざる者である事を示している。妖魔。――…しかも、最高危険種。
その異形の者の姿に俺達は話を中断せざるを得なかった。
「妖魔…?」
その言葉を洩らしたのが自分なのか、エミリオ王子なのか俺には判断する事が出来なかった。
この森に来てから今の今まで、恐ろしいエンカウント率で希少生物達と遭遇して来たスノーホワイトちゃんだったが、今回ばかりは今まで出会ってきた生き物達とは遥かに次元が違う。
興奮時に目が紅くなる魔物なら、実はさほど珍しくはないのだ。
そこそこ強い魔獣や低級、中級の妖魔でも興奮時に目が紅くなる事がある。
しかし通常時も紅い瞳の最高危険種は、半端なくやばい。――…それこそ高位魔族と等しいくらいに。
エミリオ王子はすぐさま立ち上がり、スノーホワイトを背後に庇う様にして抜刀する。
「お前は何者だ」
―――しかし、妖魔には敵意がなかった。
良く良く見てみると、彼は今生きているのも不思議なくらいにボロボロだ。
俺の顔をみると、その妖魔は地獄で仏に出会った様な顔になって笑った。
「あなたが、三浦晃 か…」
「え…?」
まさかここで耳にする事はないだろうと思っていた、懐かしい響きに瞠目する。
(なんで、俺の名前を…?)
俺と顔を見合わせた後、エミリオ王子は地面に転がる男の顔に剣先を突きつけた。
「何をおかしな事を言っている?彼女の名前は、」
「お待ち下さい、エミリオ様」
「しかし…、」
不満気な顔をする彼を手で制し、地面に膝をついている男を助け起こす。
良く良く見てみると男は燕尾服を着ていた。
布地から言って、そこそこ良い所のお抱え執事だったのだろう。
(俺の名前を知っていると言う事は、ウンディーネか向こうの世界の関係者、又はそれに近い存在のはずだ…)
最高危険種と言う見た目に物怖じこそすれど、貴重な情報源を自ら手放す事はない。
「あなたは…?」
「私はあなたのお姉様に使える者です。あなたのお姉様が、命の危機なのです。……私だけでは、無理でした」
「お姉様…?」
「――――、ッ!……絶対にお守りすると、誓ったのに…!!」
(まさか…)
全身から血の気が引いて行く。
―――スノーホワイトに姉に当る人間は存在しない。
彼は確かに”三浦晃”と俺の名前を呼んだ。
彼が指しているのは、恐らく三浦晃の姉の、――三浦亜姫。
「お願いします、プリンセススノーホワイト!いいえ、アキラ様!どうかご尽力願えないでしょうか!?俺は、彼女を、――…アキ様を助けたいんだ!!」
(嘘、だろ…?)
「アキが、この世界にいる…?」
老婆の様にしわがれた声がスノーホワイトの口から洩れた。
「そうです、あなたと同じ様に、アキ様はこの世界に転生しているのです!!」
気を抜くとそのまま気を失ってしまいそうな俺の手を「逃がさない」とでも言う様に強く掴みながら、男は強い眼差しのままこちらに訴えかける。
「スノーホワイト…?」
エミリオ王子は、どこか不安気に俺と妖魔のやり取りを見守っていた。
その時、俺は三浦晃の最後の記憶を思い出した。
―――あの日は確か…、
(そうだ、学校の帰り道、偶然アキとアイツに会って、)
路地裏を曲がったアイツの背中が見えなくなった時、姉はポツリと呟いた。
『私さ、やっぱりこういうの良くないと思うんだ』
『何がだよ』
『シゲ君の事だよ。私もアキラ君の事言えないけど、……そろそろ仲直りしてもいいんじゃない?』
『…………。』
『私知ってるよ?アキラ君も本当はずっと仲直りしたかったんだよね?仲直りする切欠が欲しかったんだよね?』
『そんなわけ、』
『素直じゃないんだから。じゃあ机の奥に隠してたCDは何?アキラ君洋楽なんて興味ないじゃん。シゲ君とまた会話する切欠が欲しいから、頑張って洋楽聴いて勉強してるんでしょ?』
『勝手に人の部屋入るなっつってんだろ!この腐女子!!』
『うるさいなこのキモオタ!!――…それよりも、ほら、早く追いかけよう?今なら間に合うよ!』
姉は渋る俺の腕を掴む。
その場を頑なに動こうとしない俺に、姉は嘆息すると一人で走り出した。
『シゲ君、待って!!』
校則の規定通り膝下のスカート丈の、セーラー服の長いスカートを翻しながら姉は駆けて行く。
特段自慢する所もないような姉だが、アキは昔から髪だけは綺麗だった。
姉の長い髪が踊るのを、彼女の後でぼーっと突っ立ったまま見送る。
―――その時、
ギイイィイイイッ!!
姉に迫る一台の対向車。
動けないのだろう、強張った様にその場に立ち尽くすアキを見て俺は慌てて走り出した。
『アキ!!』
姉の手首を掴んだ所で俺の記憶はプツリと途絶えてた。
―――今の今まで思い出せなかった、前世の最後の記憶。
(そうか、俺、死んだのか…)
結局、アキも助けられずに一緒に死んだのか。
これはやはり悪い夢ではなく、現実だったのか。
貧血だろうか?
酷い眩暈がして立っていられなかった。
大地が足元から崩れて行く様な錯覚に襲われる。
「おい、大丈夫か、しっかりしろ!!おい、おい!!」
どうやら倒れそうになったスノーホワイトの体は、エミリオ王子に抱きとめられた様だった。
(気持ち悪い…)
吐き気が込み上げて来て、口元を押さえる。
さっきまで涼しくて心地良く感じていた小川からの風が、とても冷たく感じた。寒くて寒くて仕方がないのに、どういう訳か全身びっしょりと汗をかいている。
キーンと頭で響いているのは耳鳴りだろうか。
「そっか、俺、」
「……アキラ?」
俺の顔を覗き込む王子様のアクアマリンの瞳は、困惑で満ちている。
エミリオ王子の腕にしっかりと抱きとめられているはずなのに、体がフワフワしていて宙に浮いている様だった。
「俺、死んだんだ…」
「一体何を言っている…?」
ザアアアアアアッ!!
冷たく頬を打つ森の風の夕刻めいた色に、夜が近付いている事を知る。
木の影が一際濃い闇となって、王子の顔に暗い影を落とした。
俺達の真上にある白樺の枝先が、客に警告を与える占い師の老婆の指のように干からびた音を立てて揺れる。
午後の陽射しを吸い込んで太陽の光を溜め込んだみたいに白々と輝く河原の石と、白樺の樹の幹の白さが何故か今は身震いする程不気味に感じられて。
(駄目だ、気をしっかりもたなければ…、)
そう思ったのにそこが限界だった。
ビロードの幕がゆっくりと降りてくるように、視界がどんどん暗く、狭くなって行く。
耳鳴りの音が消えて、ふっと体の力が抜けた瞬間、俺の意識は暗転した。
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