恋人1、Happy
城の暮らしはとても楽しかったが、楽しいだけでは終わらなかった。
それもこれも彼女を虐める継母の存在だ。
これがまた、本当に意地の悪い女だった。
彼女の善意からの言動も全て悪意と捉え虐げる。幼い彼女が継母にプレゼントした似顔絵も「私はこんなに不細工ではない」と破り捨て、彼女が花畑でつんできた花を「こんな金のかからないプレゼント、産まれて初めて貰ったわ。なんてケチな子だろう」とダストボックスへ直行させる。
他の者がした失敗も彼女になすりつけて、罰を与え折檻する。
言ってもいない事を言った事にし、時に言葉尻を捉えて拡大解釈して、父王に報告する。
幼いが故に反論の言葉を持たず、愛されて育ったが故に人の悪意に不慣れな彼女は、その女のやる事なす事にただ呆然としていた。
俺がこの城に来た時、彼女の部屋は一国の姫君らしい部屋だったが、気が付いた時には使用人と同じ部屋になっており、最後には納屋になっていた。
彼女の着ていたドレスも、今や使用人の物と何ら変わりはない。いや、使用人の方がよっぽど良い物を着ている。
人の世は、俺の想像を越えて悪意で満ちていた。
富める者や地位ある者が落ちぶれていく様と言うのは、何も持たない者からすればとても良い娯楽になるらしい。
つい最近まで繊細なレースや豪華な刺繍、金銀宝石を縫いつけた美しいドレスを着ていた姫君が、使用人以下のボロを着せられて城の石畳にブラシがけをする様子を見て悦ぶ悪趣味な人間はいた。
(彼女は何も悪い事なんかしてないのに…。)
俺はあのけばけばしい香水の匂いをプンプンさせて、尻を振りながら歩く女の事が大嫌いだった。
『ぽてとは私のことを信じてくれる? 私、お義母様の宝石なんて盗んでいないのよ…?』
肌寒い納屋の中でポツリと呟いた彼女の言葉に、俺は獣語で「当たり前だろう!?」と全力で吼えた。
そんなの当然知っている。
彼女は継母の宝石なんて盗んでいない。
確かに今日、継母に命じられて彼女はあの女の部屋の掃除をしたが、彼女は貴金属の類には一切手を触れなかった。俺はその現場をちゃんと見ている。
その後何故か久しぶりに呼ばれた夕餉の席で、継母の宝石が彼女のポケットの中からころりと出て来たのだが、それはあの女があやかしの術を使ってこっそりと仕込んだものだ。
―――意地の悪い継母の正体は魔女だった。
『ありがとう、ぽてと。私の事をだれも信じてくれなくても、ぽてとが信じてくれるなら私は平気よ、つらくなんてないんだから』
キャンキャン吼える俺の言葉の意味を察したらしい彼女は、俺の耳の後から背中にかけて大きく撫でてくれた。
(あ、だめ。キャウーンじゃない、何腹出して喜んでるんだよ俺)
今はもっと俺が頼りになる存在だって、彼女を勇気付けなきゃならない時なのに。
でもそんな俺を見て嬉しそうにクスクス笑うお姫様を見て、「まあ、いっか」と俺も笑った。
たまに人型になって、彼女の無罪を主張してやりたいと思うのだ。
いつだって悪いのは継母だ。俺は彼女が悪い事なんて何一つしていない事を知っている。
しかしそんな事をしても、あの女が「化物を飼っていた!」と新たに彼女を虐める材料を作ってしまうだけだと言う事を俺も理解していた。
そして俺の正体がバレたら最後、継母も、他の人間も俺を彼女から遠ざけようとするだろう。
だから俺は今日もこうやって愛くるしい子犬の演技をして、彼女を慰めてやる事くらいしか出来ない。
(ニンゲンは皆汚い。彼女以外、皆汚い……。)
人の世界とは実は獣の世界と大差ないらしい。
つまり強い方に肩入れする。
弱くて小さな彼女に肩入れしようとする人間はいなかった。
正義では飯は喰えない、継母に逆らって職を失ったら皆困るからだろう。
彼女の父親も、新しい妃と面倒事ばかり起こす娘を徐々に避ける様になって行った。
彼女は継母に虐げられる事よりも、それが一番堪えたらしい。
『ハッピーバースデー、私』
今日は俺の小さなお姫様の誕生日だった。
以前ならば城下町には屋台が立ち並び、国を挙げてのお祭りが催されていた日だ。
沢山のプレゼントと祝いの言葉が届き、城内では一国の姫君らしい祝いの席が用意され、彼女が絶えず笑顔を振りまいていた日でもあった。
しかしそんな彼女の誕生日は継母が来てから鳴りを潜めて行き、今年はついに俺と二人きりの誕生日だった。
去年までは父親が人目を盗んでこっそりと部屋にちっぽけなプレゼントを投げ込んで来たのだが、今年はそれすらない。
父親の中で今や彼女は、新しい女との間に揉め事ばかり起こす疫病神の様な存在らしい。
しかしそれでも「今日は特別な日なの」と言って、彼女は例年通り笑顔を絶やさない。
『ちゃんとケーキも用意しないとね。だって今日は私の誕生日なんだから』
彼女は鼻歌を歌いながら、床板すらない納屋の敲き土の上に木の棒で自分の誕生日ケーキの絵を書く。
そんな彼女を不憫に思いながら、俺が何か彼女にプレゼント出来る物はないのだろうかと考えた。
(でも、俺がどっかで何か盗んできてもこの子は喜ばないし、継母に虐める口実を与えるだけなんだよなぁ…)
ポタ…、
その時、敲き土のケーキの上に水滴が落ちた。
ついにこの古い納屋の屋根にも穴が空いて、昨夜の雨水でも漏れたのかと慌てて天井を見上げたが、そうではなかった。
『お父様……』
(あ……、)
彼女は静かに泣いていた。
隙間風の吹く寒い納屋の中で、静かに涙を零す彼女の頬を舐めて慰める。
『だいじょうぶよ、ぽてとが一緒だからちっともさみしくなんてないの』
『くぅん…』
『ぽてとがいてくれて良かった、とてもあたたかいわ』
『くぅん…』
今の俺にはこうやって毛皮で彼女を暖めてやる事くらいしか出来ない。
(待ってて。大きくなったら、もっと強くなったら、いつか絶対にあの女の喉笛を喰い破ってやるから……。)
涙に濡れた少女の寝顔にそう誓うと俺も眠りについた。
いつか来るその日に備え、爪を、牙を研ぎ澄まして。
―――翌朝、
『ぽてと、みて!みて!』
朝鳥達の鳴き声と共に納屋の中に届いたのはパンケーキだった。
『ぽてと以外にも私のお誕生日をおぼえていてくれた人がいたみたい!』
パンケーキの上にささった自分の年の数の蝋燭を見て彼女は大喜びしたが、俺は何だか泣けて来た。
(良かった…)
例え父親が新しい妃の尻に敷かれて使い物にならなくても、このお姫様の味方はちゃんと居る。
彼女の味方は俺だけじゃない。
(それがこんなにも、泣きけてくるほどに嬉しくて、頼もしいだなんて……)
―――次第に俺は、人の世もそんなに悪い物でもない事を知る。
継母の悪行を見ている人は見ていたのだろう。
食事なしの折檻が続けばこっそりと食事は届けられ、寒い夜は納屋にこっそりと毛布を持ってきてくれる者も居た。表立って庇ってくれる人はいなかったが、継母に怒鳴り散らされた後、労わりの言葉をかけてくれる者は居た。
君は顔を上げて胸を張って堂々としていればいい。
だって、君は悪い事なんて本当に何もしてないんだから。
―――そんなあくる日の午後。
ついに俺が継母が彼女を虐める口実となってしまった。
『なんじゃこの汚らしい犬は!!城から追い出せ!!』
俺の尻尾を捕んで持ち上げた継母は、そのまま俺を5階の窓から外に捨てようとしてみせる。
『やめてえええええええっ!!』
お姫様が泣き叫ぶのを見て、意地の悪い継母は心底楽しそう笑う。
なんて性格の悪い女だろう、この女は純粋に彼女を傷付けたいだけなのだ。
俺にはニンゲンの結婚事情は良く解らないが、先妻の娘とはそんなに憎いものなのか?それとも彼女のその人間離れした美しさのせいか。
年を重ねる毎に美しくなって行く彼女を見る継母の目は、憎悪一色だ。
その美しさはもうぼろを纏っても隠し通せるものではなかった。
彼女が輝きを増して行く程、継母の彼女に対する打ちはどんどんエスカレートして行く。
『待って義母様、ぽてとは汚くないわ、ちゃんとお風呂にも入ってるの!』
俺を助けようとお姫様は懸命に継母へ訴えかける。
『でも灰を被ったようなくすんだ色をしているではないか、おい、捨てて来い』
『やめて!ぽてとは私のお友達なんです!!』
その場に居た兵に俺を捨てて来いと渡そうとする継母に彼女は必死にしがみ付く。
『くっ…離せ!!』
ドン!!
『きゃあ!』
突き飛ばされた少女の体が床に倒れたその時――、俺の中で何かがキレた。
今まだって、一体何度この女の喉笛を喰い千切ってやろうと思った事だろう。
それでも寸前の所で自分を抑えてこれたのは、この女が今まで彼女に直接手を上げた事がなかったからだ。
(殺してやる……!!)
ドクン、ドクンと言う心臓の音と共に、視界が赤く染まって行く。
ブワッ!!
『ぎゃああああ!!妖魔じゃ!!この王女、妖魔を飼いならしておる!!』
『ひっ!妖魔だ、姫様、離れてください!!』
『えっ?』
殺気を全身から放出させると、俺は継母に床に投げ捨てられた。
そのまま彼女の前に着地した俺は、彼女を庇うように牙を出し全身の毛を逆立てて威嚇する。
グルルルル…
―――その時、
『ぽてと、あなた、妖魔なの……?』
(え……?)
振り返ると、きょとんとした顔で彼女は俺を見つめていた。
(妖魔……? 俺が……?)
俺は獣人とニンゲンの合いの子じゃなかったのか?
しかし部屋の鏡に映った自分の目は、血の様に真っ赤だ。
(目が紅くなるのって、そうだ、確かとっても危険な妖魔だけで……。)
そう言えば野良生活をしている時も、何度か「森へ戻れ、妖魔」と意地悪なカラスに言われた事がある。
『そうなの、ぽてと……?』
『…………。』
どうやら俺は自分の想像を遥かに超えた化物のようだった。
彼女のその真っ直ぐな瞳に俺は耐える事が出来なかった。
正直に答える事も、嘘を付く事も、俺には出来なかった。
―――俺に出来た事と言えば、ただ逃げる事だけだった。
『ぽてと!まって、戻ってきて!!』
彼女の悲痛な叫びを振り切って、俺は城を飛び出した。
それから俺はなんとなく住みついた近くの森の中で獣として生きる事を選んだ。
彼女と共に過ごした幸せだった日々を思い出し、ただ死んだ様に生きていた。
(あの子に、会いたい……)
またあの魔女に虐められて泣いてはいないだろうか?
せめて最後にあの女の喉笛だけでも掻き切ってから消えれば良かった。
今はただ、森の奥で彼女の幸せを祈る事しか出来ない。
(会いたいよ……)
彼女に会いたくて会いたくて。
彼女が恋しくて恋しくて。
森に彼女と同じ年頃の人間の少女が入ったと聞くと気が気でなかった。
人間の女が森に入ったと聞けば、「彼女かもしれない」と近くまで覗きに行ったものだ。
その都度衝動的に人間の娘を喰い殺し、俺は絶望する。
―――俺には野蛮な獣 の血が、悪しき魔性の血が流れている。
(どんなに彼女が恋しくても、もう彼女とは会えない。いや、会ってはいけないんだ)
たまに我慢出来なくなって衝動的に森を飛び出して、彼女の住んでいた城の近くまでふらりと行くがあったが、もうこれっきりにする事にした。
(もう、彼女の事は忘れるんだ。忘れて、獣として静かに森で生きよう……)
多分だけど、きっといつかまたどこかで彼女と会える様な気がしていた。
もしかしたらいつの日にか「あなたが化物でも構わない」と言って、彼女が俺の事を迎えに来てくれるんじゃないか?そして、また彼女と一緒に暮らす事が出来るんじゃないか?って、そんな夢まで見ていた。
でもそれはやはり叶わぬ夢なのだ。
(だって俺は、ニンゲンじゃないんだから……)
―――それから俺は荒れた。
幸い森には「人の臭いをプンプンさせている犬だ」「余所者よ、森を出て行け」と俺に突っかかって来るうるさい奴等が沢山いた。
荒ぶるにはここはとても最適な場所だった。
獣の世界も魔性の世界も力こそ全てだ。
毎晩森で血の宴を繰り広げ、魔性が血に酔うとはこういう事なのかと知った。
獣を殺し、魔獣を殺し、妖魔を殺し、――…気が付いた時には、俺はミュルクヴィズの森で森の主と呼ばれる様になっていた。
―――それから数年の歳月が流れたある日、俺は初めて敗北を経験する。
この俺を打ち負かしたのは信じられない事に、非力だと思っていたニンゲンだった。
瀕死のダメージを受け、人型に戻った俺に金髪の少年は振りかざした剣をピタリと止める。
『お前、半妖か?』
『……だったら何だ』
『話せるのか。親はどうした、森に捨てられたのか?』
『…………。』
答えずに獣の時と同じ様に唸り声を上げ、歯を鳴らして威嚇しているとその少年は剣先を降ろした。
『私と一緒に来るか?』
『な!アミール王子、何を馬鹿な事を言っているのです!!』
もう一人の眼鏡の男が焦った様子で大きな声を出す。
王子と呼ばれた男は微動だにせず、視線を俺の目から外そうとはしなかった。
こういう時、獣の世界では先に視線を外した方が負けだ。喰われる。
牙を剥き出しにし、威嚇の唸り声を上げ、その金髪の少年を睨み続けながらも俺は戸惑っていた。
(この男は何を言っているんだ……?)
この人達は俺とは別の生物だ。
一緒に暮らせる訳がない。
でも、何故だろう。
伸ばされた手が、何故かとても魅力的な物に見えるのだ。
『ぽてと、おいで』
―――目の前の少年の手が、何故かあの子の小さな手と重なって見える。
『ぽてと、こっちよ』
目の前の少年の手がぐにゃぐにゃ揺れた。
(俺……、)
はらはらと頬を流れ落ちる涙は止まりそうになかった。
眼鏡は唇を噛み締めながら落涙する俺を見て瞠目する。
王子は顔色一つ変える事なく、俺に手を差し伸べ続けていた。
その一点の汚れもないガラスの様に澄んだ眼差しが、またしてもあの子と重なる。
『でも……、』
先に視線を外したのは、俺の方だった。
出来る事ならばこの手を取ってみたい。
そしてまた人の世で暮らしてみたい。
(そして、いつかまた彼女に会いたいんだ……)
まだあの酷い場所で虐げられているのなら、俺が迎えに行ってあげたい。――彼女が待ち焦れている、素敵な王子様になって。
『でも、俺は化物だ……』
口から漏れた俺の声は、自分でも笑える程絶望的だった。
(だって、そんなの無理に決まってる……)
俺はその手を取る事が出来なかった。
この人達も、あの子の事も、傍にいたら俺はいつか必ず食べたくなってしまう。
いつの日か、自分が抑えられなくなって食べてしまう日が来るのなら。それならば――、
(最初から一緒になんていない方が良い……)
俯いて自嘲気味な笑みを浮かべる俺に、その金の髪の少年は言う。
『私は常々思うのだよ。この世で一番おぞましい化物は人間なのではないかと』
『…………?』
『魔獣も妖魔も自分達の欲望を否定しない。だが人はいつだって自身の浅ましい欲望を否定する。それが獣の獣性とそう代わらぬものであっても、妖魔の血の欲よりも醜いおぞましいものであっても、綺麗な言葉で着飾って、人々の賛同を得て、正当化し、開き直って生きている。民衆の支持を得て長年正当化された物はやがて常識となり、いつしか正義となる。そうなると大多数の人間は、その欲求の根源は善か悪か考える事すら放棄するようになる。良識と言う名の独善的なまやかしで誰かを傷付け、迫害し、正義の名の元に奪い、喰らい、殺す。それが私達人間と言う種だ』
『…………。』
『お前が化物だと言うのなら、城 はもっと酷い魔物達がうようよしている大魔窟だよ。ここにいるイルミなんて貴族社会と言う名の伏魔殿のレイスの様なものだ』
『王子、何をさらりと失礼な事を言っているのですか』
何を言っているのか良く分からないが、この人が俺を励まそうとしてくれているのは分かった。
『でも、俺は……たまに、人を喰い殺したくなる』
『それは飢えているからだ。定期的に一定量の肉を摂取し、腹を満たせばそんな気も起きなくなる。私には何人か半妖や半獣の友人がいるが、皆そうやって折り合いをつけて人の世で暮らしている』
『そう、なのか……?』
『ああ、別にお前の様な存在は珍しいわけではない』
(本当にそうなんだろうか…?)
にわかには信じられない話だ。
『……俺が怖くないのか? 俺があんた達を襲ったらどうするんだよ…?』
俺の言葉に二人は顔を見合わせた後、プッと吹き出した。
『負け犬が何か吠えていますね』
『そういう事は一度でも私達を打ち負かせてから言うといい。この通り、私達は君よりも強いから』
うわ、ムカつく。
なんだこいつら殺したい。
『私はいずれこの国の王となる男だ。ただ、残念な事に義母上がルジェルジェノサメール城に来てからうちの中は敵ばかりでね。今は少しでも城内に自分の味方が欲しいんだ』
(……城……敵……継母……)
目の前の少年の境遇があの子と重なる。
『君は鍛えればきっと優秀な戦士になるだろう。どうかうちに来て私を手伝ってはくれないか?出世払いになるが、私が玉座に就いたらそれなりの礼はするつもりだ』
『…………。』
人との暮らしに、人との会話に飢えていた俺は、その魅力的な誘惑に抗う事は出来なかった。
恐る恐る伸ばした俺の震える手を、その王子はガッシリと掴む。
『名前は?』
ぽてとと答えようかと思ったが、俺が答えたのは何故かとっくの昔に捨てたはずの、―――…人としての名前だった。
『…………ヒルデ…ベル、ト』
『良い名だ。私はアミール・カレロッソ・アロルド・アルチバルド・フォン・リゲルブルク。ここリゲルブルクの王太子だ、よろしくね』
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