恋人1、Happy
「この子に……触るなああああああああっ!!」
「ヒル……?」
自分の姿を見上げ、目を見張る少女のその驚愕の表情に、「やってしまった」と胸に自責の念が沸くがもう全てが遅かった。
―――彼女と再会してから、今度はバレないようにしなければとずっと思っていたのに。
****
俺の一番古い記憶は馬小屋の中だ。
それは俺がまだ幼獣で人型に変化できる様になる前の事。
馬小屋の干草の上で暖を取りながら、屋敷を出たあの人の足音がここに近付いて来るのを心待ちにしている記憶。
今となってはもう家の名前も場所も良く覚えていない。
ただ馬が何十頭といて、馬車が何台もあり、使用人も何十人いる大きな家に自分が産まれた事だけは覚えている。
俺はその屋敷の裏にある、馬小屋の中で育った。
たまに母親だった女が馬小屋に俺の顔を覗きに来る。
彼女の顔は朧げながら覚えている。
『あなたは悪くないのよ…』
そう言って彼女はいつも泣いていた。
母曰く、俺は”普通”ではないので、屋敷の中で彼女と一緒に暮らす事は出来ないらしい。
『あなたは悪くないの、全部、私が悪いの…』
そう言ってすすり泣く母が不憫で、俺は別にここで馬と暮らす生活に何も不自由はしていないのだと告げるが、当時の俺は人語を話す事が出来なかった。
今思えば恐らく俺の父親が獣人の類だったのだろう。
母の話によると、父は自分の正体を母に伏せたまま彼女を身篭らせると、どこかに消えてしまったらしい。
産まれた赤子が犬だった事がとてもショックだったのか、母は静かに狂って行った。
もしかしたら俺を産んだ瞬間に狂ってしまっていたのかもしれないが、彼女がいつ狂ってしまったのか、正確な所は俺には分からない。
首に繋がれた首輪はあまり好きではなかったが、飢える事もなかったし、当時の俺はその暮らしに特に不満らしい不満は抱いてはいなかった。
母といつも一緒にいられない事は悲しかったが、彼女が時折連れて行ってくれる散歩が大好きだった。
彼女と一緒に歩いた丘へと続く小道の事は、今でも良く覚えてる。
裏庭の池の岩の上にいつも乗っている大きな無愛想な蛙と、たまに池から顔を覗かせる大きな岩亀。坂道に入るといつも俺をからかって来るデブ猫。それを見てころころ笑う、鈴を転がす様な母の笑い声。
私有地の赤茶色の砂利道を駆け抜けて、流れる雲をどこまでも追い駆けた。
胸いっぱいに吸い込んだ空気は青々と茂る草の香りがした。
出来る事ならば、本当は毎日散歩に連れてって欲しい。
出来る事ならば、本当はもっと、ずっと彼女と一緒にいたい。
俺が”普通”の姿に生まれてさえいたら、その願いは全て叶ったはずなのに。
でも、悲しいけど、……そんな事を思ってもどうしようもないんだ。
これは仕方ないのない事なんだ。
(だって、俺は”ニンゲン”じゃないんだから……。)
当時の俺は彼女が次に馬小屋に顔を出してくれる日を、外へ散歩に連れて行ってくれる日を、ただ心待ちにして生きていた。
それなりに幸せだった。
馬小屋での生活もそう悪い物ではなかった。
馬の餌を盗みに来た鼠や猫を追い返すのが俺の仕事だったし、狼が馬や鶏達を狙いに来れば、勇敢に立ち向かって追い払ったりもした。
そんな俺を馬達は慕ってくれて、彼等とはとても良い関係を築けていた。
―――しかし、そんな俺の日常はある日呆気なく崩壊する。
それは月が血の様に赤い夜の出来事だった。
コツ、コツ、コツ…、
猫の目の様に細長い月が雲間から覗く寒空の下、長い影を揺らめかせながら女が馬小屋へと続く小路を歩く。
聞き慣れた足音に、自然と耳が動き期待で尻尾が揺れる。―――しかし、その夜はいつもと何かが違った。
『ヒルデベルト、ママと一緒に死にましょう?』
誰もが寝静まった時刻に松明を持って現われた女は、そのまま馬小屋に火を放った。
女の白いナイトドレスが轟々と燃え盛る炎を受けて、オレンジ色に光る。
『もう、ママ疲れちゃった。妹のイザベルは普通の人間の赤ちゃんを六人も産んだのに、お前は出来損ないしか産めないのか?って毎日言われるの。でも、そんなの仕方ないと思わない? どんなに産みたいと思っても、産めないものは産めないんだから』
痩せ細り頬骨の浮いた女の頬を伝う涙までもがオレンジ色に光っている。
(この人は、一体誰だろう……?)
俺の母親はこんな顔をしていただろうか?
今、自分の首を絞めている女は、俺の知っている母親とはまったく違う女の様に思えた。
優しくて温かい、俺の知ってるあの人じゃない。
『ママね、また流産しちゃったんだ。――……もう、耐えられない。親に決められた好きでもない相手との愛のない結婚も、その男との苦痛なだけの子作りも』
松明の火が干草に燃え移り、炎は唸りを上げて燃え広がって行く。
ヒヒィィイイン!!
熱い、助けてくれと馬達の悲鳴が聞こえる。
馬達を早く逃がしてやらなければと思うが、女に押さえつけられ身動きが取れない俺は彼等を助けてやる事が出来なかった。
『ねえ、ヒルデベルト。私の可愛い赤ちゃん。あなたは、あなただけは、私の味方よね? お願い、私と一緒に死にましょう?』
人としての俺、――彼女の息子としての俺は、正直ここで彼女と一緒に死んでも良いような気がしていた。
―――だが、
ガリッ!!
俺の獣の本能の方は、死ぬ事を良しとはしなかった。
『きゃあ!?』
俺が自分の首を絞める女の手に噛み付いのは、無意識だった。
鋭い牙が女の肌を裂き、黒煙で煙い馬小屋に鮮血が飛び散る。
ギッ、ガッガッ…!!
女が油断した隙に、自分の首に繋がれている縄に必死に牙をたてる。
『ヒルデベルト!!嘘でしょう、何をやっているの、やめなさい!!』
ブワッ!!
俺が逃げようしているのに気付いたらしい女は、松明の炎をこちらに振りかざす。
ガツガツと松明の炎で背中を殴られる度、意識が飛びそうになった。
猛烈な痛みの中、ただひたすら縄を噛み千切る。
(切れろ、切れろ、切れてくれ、頼むよ……、お願いだから……!!)
もう少しで切れそうなのに、切れない。くそ、なんなんだよ、この縄は。
―――その時、
ヒヒィィイイイイン!!
『きゃああ!!何、何なの!?』
柵を突破した栗色の毛並みの馬が、その蹄で俺の首輪を繋ぐ縄を繋いだ杭を蹴り破り、そのまま馬小屋に大きな穴を開けた。
(お前……、)
その馬は、俺がいつか狼から助けた馬だった。
ヒヒィィイイイイン!!
逃げろと叫ぶ馬に礼を言うと、俺は命からがら馬小屋を飛び出した。
(ありがとう……!!)
異変を感じたらしい屋敷の住人達がハラハラと馬小屋に駆けつける足音が耳に届き、安堵する。
馬達は恐らく命を落とす事はないだろう。
『待ちなさい!ヒル、駄目よ!お母さんの言う事が聞けないの!?』
馬小屋の穴からこちらに手を伸ばして叫ぶ女に、静かに別れを告げる。
(ごめん。母さん、さよなら)
後を振り返らず一目散に走り出す。
震えていたのは俺だったのか、それとも月だったのか。
夜空に浮かぶ月が震えて見えた。
松明で何度も殴打された背中からは焦げた毛皮と焼けた肉の臭いがした。
まるで背中に猛毒でも塗られた様だ。ドクドク波打つ心臓の音と共に全身に激痛が走る。
痛みで崩れ落ちそうになる足に鞭を打ち、ただがむしゃらに走った。
『許さない!!絶対に許さないわ!!あなたまで私を裏切るの!?あなたまで私を捨てると言うの!?』
後から聞こえる女の金切り声は、まるで呪いのようだった。
―――その日、俺は母と家を捨てた。
****
その後、俺は野良犬として放浪生活を送る事を余儀なくされた。
しかし人に飼われて育った俺が今更野良犬として生きるのは厳しい物があった。
街で野犬と相まみえれば「森へ帰れ!」と吼えられて、試しに森へ行ってみれば「人くさい犬、人の世へお帰り」と追い出される。
俺の居場所なんてどこにもなかった。
残飯を漁り、泥水を啜り、必死に生き延びていたそんなある日――、
『野良犬か、餌はないぞ!』
『お前が来る様な所ではない、帰れ』
『やめなさい、何をしているの?』
―――俺は彼女に出会った。
彼女と出会ったその瞬間、俺は自分の目を疑った。
何故ならば目の前に現れたその少女が美しすぎたからだ。
彼女は本当に人間なのだろうか?
たまに雲の上から足を滑らせた天使が堕ちてくる事があると聞くが、彼女がその天使のではないか?と真剣に思ったくらいだ。
その美しい少女に俺はしばらく見惚れていた。
『お腹が空いているの?パンをお食べ?』
空腹で仕方なかったと言うのに、俺は差し出されたパンの存在にもしばらく気付けなかった。
ふと我に返って差し出されたパンをガツガツ貪る俺を、その子はとても嬉しそうに眺めていた。
久しぶりに飯にありつけたと言うのに、パンの味は良く分からなかった。
『迷子なの?お母様は?』
(そんなもの、俺にはいない…)
もしかしたらどこかにそんな人もいたかもしれないが、あの人とはもう一生会う事もないだろう。――…そしてそれがあの人にとっても、俺にとっても最良の選択のはずだ。
そのお姫様は不思議な子供だった。
俺は母親との暮らしで人語は理解していたが、人の言葉は話せない。
なのに彼女は不思議と俺の言葉が分かる様だった。
『あなたもお母様がいないのね』
『くぅん…』
『なら、わたしと同じね』
俺を優しく抱き上げる小さな腕に、体が石の様に固まる。
駄目だ、俺なんか触れちゃいけない。
俺を触ったら、こんなにも綺麗で美しい君が汚れてしまう。ああ、ほら。言わんこっちゃない。君の手もドレスも真っ黒になってしまった。
申し訳がなくて、優しく俺の頭を撫でるその小さなもみじの様な手に心の中でひたすら謝った。
―――でも、その小さく温かい手を拒む事は俺には出来なかった。
それから始まった彼女との生活は、まるで夢の様だった。
俺は人間ではないのに、”普通”ではないのに、俺は彼女と彼女の部屋で一緒に暮らしても良いらしい。
初めて彼女と一緒のベッドで眠ったその日、俺は泣いた。
腹の底から泣いた。
何故自分が泣いているのか、その意味すら分からずに泣いていた。
彼女を起こさない様に声を押し殺しながら、夜が明けるまで泣いていた。
(そうか、俺、寂しかったんだ……。)
本当は俺、あの人と一緒に家の中で暮らしたかったんだ。
一緒に食事をしたり、一緒のベッドで寝たり、そんな普通の事がしてみたかった。
窓に映った自分の姿は、小さな子犬の姿ではなく、彼女と同じ人間の少年の姿だった。
―――その夜、俺は人型に変化する事を覚えた。
人に変化する事を覚えこそしたが、子犬の姿でなければ彼女の傍に居続ける事は出来ない事は俺もなんとなく理解していたので、俺が彼女の前で人型になる事はなかった。
俺達はすぐに友達になった。
彼女は俺を「ぽてと」と名付けて、とても可愛がってくれた。
名前の由来は俺の歩き方がぽてぽてしているからと言うのだが、そんなに俺は愛くるしい子犬の様に見えるのだろうか?
(最近は牙も尖って来たし、爪だって結構鋭いんだけどなぁ……)
野良生活で、実は自分は犬ではなく狼の血を引いていると知ってしまった俺としては、少し複雑な所がある。
それでも彼女に「ぽてと」と呼ばれるのは悪い気はしなかったし、彼女との生活はとても楽しかった。
それから俺達はいつでも一緒だった。何をする時も一緒だった。
いつだって彼女の隣には俺が居た。
とても幸せだった。
俺はあの小さなお姫様の事が、本当に大好きだったんだ。
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