6・絶望と希望の間で溺れてる
―――水の都、城郭都市ドゥ・ネストヴィアーナ。
一方こちらでも激しい戦いは続いていた。
ルジェルジェノサメール城の正門部分は、突如現れた巨大な金の狐と白豹により完全に破壊されていた。
緊迫感溢れる空気の中、両者が睨み合いを続けていたその時――、
「ラインハルト!?」
突如金狐が人型に戻った。
妖狐は城と白豹を交互に睨 め付けた後、舌打ちをしてその場から消えた。
(逃げた…?)
鏡の妖魔は人型に戻ると、近くの民家の屋根の上にフワリと着地した。
「まあ、いいか」
約束通り、時間は稼げたはずだ。
その時、彼の瞳に中庭を囲む様にして造られたルジェルジェノサメール城の渡り廊下の先から落ちそうになっている女の影が映った。
人の視力では、この位置からその人影を判別するのは到底不可能だが、彼は人間ではない。
先程の戦いの余波で渡り廊下が崩れてしまったのだろう。何とか片手で崩れかけた煉瓦にぶら下がっている状態だがその女の姿形には見覚えがあった。
「亜姫様…!?」
屋根を駆け、瓦礫の上を跳躍し、空を飛んで燕尾服の妖魔が走る。
「きゃあ!?」
『亜姫ちゃん!?』
突然罅割れて、崩れ出した渡り廊下の上を走っていた亜姫達だったが、廊下が崩壊する速度の方が彼女達よりも早かった。
崩れかけの渡り廊下の瓦礫の上に捕まって落下する事は免れたが、落ちたら確実に死ぬその高さにリディアンネルの背筋を冷たい物が流れる。
『大丈夫!?捕まって!』
「あ、ありがとう!」
差し出されたウンディーネの手を掴むが、その手は肉体のある者の手ではない事を二人はすっかり失念していた。
スルッ、
半透明のウンディーネの手を掠って、リディアンネルの手が空気を掴む。
『あ』
「げっ」
同時にガラッと瓦礫が崩れ、二人の顔が引き攣った。
『忘れてた!私、今肉体ないんだったわ…』
「お願い!!そんな大切な事忘れないで!!」
言っても栓なき事を叫びながら、リディアンネルの身体は背中から下に倒れ込む様に落下して行く。
(鏡…!!)
亜姫がギュッと目を瞑った瞬間――、
ダッ!!
「亜姫様、ご無事ですか?」
「鏡!?」
空中で抱き留められて、亜姫は思わず叫んだ。
一体どんな脚力をしているのだろうか?
どこからか跳躍してきた執事は、宙でキャッチしたリディアンネルの体を抱きかかえたまま、渡り廊下の上に華麗に着地した。
「言いたい小言は山の様にあるのですが、ひとまずここを離れましょう」
確かにこの渡り廊下はまだ残っている部分もいつ崩れてもおかしくない。
亜姫を姫抱きしたままカツカツと歩き出す執事に、ウンディーネが頬を染める。
『あら、いい男』
「亜姫様、こちらの方は?」
『亜姫ちゃんの親友、ウンディーネちゃんでーっす!』
「そうですか、亜姫様がお世話になった様で…」
『ノンノンノン!親友同士ですからそんな事気にしないで結構よん!』
(し、親友…?)
二人のやり取りに三浦亜姫時代の悪夢が彼女の中に蘇る。
(駄目だ、こんなんじゃシゲ君の時と同じ!また取られちゃう!!)
―――私はもう、昔の私じゃない…!!
亜姫は覚悟を決めた。
「鏡!あ、あの!あのさ!」
「はい?」
「わ、わた、わた、わたし、わた、私! あっ、あ、あ、あ、あん、あんたの事が、」
あまりにも至近距離でアワアワしながら言ったせいか、執事の顔に唾がかかってしまった。
「あ、あ、ご、ごめ、ごめん!」
「いえ」
キョトンとする使い魔の顔にかかった唾をゴシゴシ拭きながら、恥ずかしいやら、情けないやら、申し訳ないやらで何だか泣きたくなって来た。
(……変わったと思ったのに、少しは変われたと思ったのに、やっぱり私は私のままだった)
18年と32年も生きておいて、告白一つろくに出来ないなんてどうかしてる。
「亜姫様、いかがなされましたか?」
亜姫を抱えて歩く執事の足が止まる。
過ぎて正面から使い魔の顔を直視する事ができず、亜姫はギュッと目を瞑った。
「だから!わた、私、あん、あ、あ、あんたの事が!そ、その!」
「はい」
「す、す、す、すき、……好き、みたい!! なんだけど、えっと、だから、す、すき? みたい、で……!」
シーン……
しばし、渡り廊下に沈黙が訪れる。
亜姫が恐る恐る目を開けると、目の前の執事は真顔で固まっていた。
「鈍いとは思っていましたが、まさかここまでだったとは…」
「は?え?」
『あらあら、お邪魔みたいなので私は消えるわね~』と言って女神様が消えた後、彼女の使い魔は呆れた様な、少し疲れた様な顔で嘆息する。
「亜姫様……もしかして今までお気付きになれていなかったのですか?」
「は?」
「知っていましたけど」
「え?」
「知っていましたよ」
「えっええええええ!?」
素っ頓狂な声を上げる主に彼はもう一つ溜息を落とす。
「それとも何ですか?亜姫様は毎晩好きでもない男と寝ていらしたと言う事でしょうか?」
「えっ!?え、あ、そ、それは……」
「まったく、この人は」
目を泳がせる主に男はクスリと笑い、彼女の顔の頬に触れた。
「か、鏡…」
唇と唇がゆっくりと近付いて行ったその時、亜姫の瞳が正面の渡り廊下を走る人影を捕らえる。
「あれはイルミ様!?エルにゃんも!!」
「ぶっ」
二人の男の姿に釘付けになった亜姫は、容赦なく使い魔の顔を両手で押しのける。
「鏡!行くわよ!生イルミ様と生エルにゃんがこんな近くにいるなんて、ジッとしてなんかいられないわ!!」
「……え、ええ、畏まりました」
彼は不貞腐れた顔で嬉々としながら走り出す主の追いかけながら、自力で牢屋を抜け出したらしいこの主のせいで、アミール王子の当初の計画にズレが生じている事を理解した。
(ええっと、つまり、私達はこれからどうすれば良いのでしょう?)
リディアンネルを救出する予定だった男達を、自分達は何故か今追いかけようとしている。
「エルにゃんの生足!生足がなっ生で間近で拝めるの!?拝めちゃうの!?イルミ様の大野ボイスがイヤホンを通してじゃなくて直接、そのまま聞けちゃうの!?聞けちゃうのね!?どうしよう!鼓膜が破瓜して妊娠しちゃうかもしれない!!」
「あ、あの、亜姫様…」
―――そしてこの主、こうなってしまったら最後、まともに話が出来なくなるのだ…。
****
「これは……?」
「あのお姫様、ついにやったんでしょうか?」
ミカエラが最上階に到着した瞬間、古城の下にある湖が眩く光りだした。
その事に気付いたのは、湖の脇の木の横で縛られているヴラジミール達だけだった。
「―――…いや、まだだ」
(スノー、頼んだぞ!)
ヴラジミールが祈る様に古城の最上階を見上げた。
最上階に辿りついたミカエラ達に、エミリオ王子は俺に目配せをした。
「大丈夫だ、お前は下がっていろ」
「エミリオ様…、」
言われるがまま王子様の後に下がると、顔の前で両手を握って祈る様に瞳を閉じる。
あれからルーカスは一言も言葉を発しなかった。
しかし盗賊と一緒に逃げ出さずにここに残ったと言う事実から、俺達は今まで通り彼が力になってくれるとどこかで信じていたのだと思う。
―――しかし、
「あ~あ、やってらんねぇ」
ガッ!
鈍い、嫌な音がした。
「え?」
不吉な音に目を開くと、ルーカスの剣が王子様の後頭部を打ち、エミリオ王子がスローモーションで倒れて行く姿が映った。
「エミリオ様!?」
そのまま前から床に倒れる王子様を抱き起こしながら俺は叫ぶ。
「シゲ!おま、一体何すんだよ!?」
どうやら峰打ちらしい。
命に別状はなさそうだが、王子様の後頭部からジワリと滲みだした赤を目にした瞬間、スノーホワイトの瞳からもそれと等しい量の水滴が溢れ出す。
「エミリオ様、しっかり!!」
「やーめたやめた、もう付き合ってらんねぇわ。初めまして、ミカエラ様。ルーカス・セレスティンです。どうかそちらのお仲間に入れて貰えませんかね?俺、結構使えますよ?」
ルーカスが自分の詰襟から外して放り投げた何かが、カラカラと音を立てて床に転がる。
水の女神が描かれた濃紺色の盾の紋章は、リゲルブルクの禁門府の近衛師団の襟章だった。
王族直属の近衛兵にしか持てない、王室に命と剣を捧げ、絶対の忠誠を誓った者だけが与えられる物。―――ルーカスは今、それを捨てた。
(なんで…?)
「裏切るというのか?」
「ええ、こんな馬鹿な奴等に付き合ってちゃ、黒炎の騎士言えど幾つ命があっても足りませんもの」
「ルーカスさん!?」
こちらを振り返る騎士の目は、俺の知っている騎士とは別人の物の様に冷たかった。
「悪いけど、俺はお前と違って賢い人間なんだよ。こんな良くわかんねぇ世界で死ぬなんて馬鹿げてる。――って事でたった今からあんたに忠誠を誓うので、俺だけは見逃して貰えませんかね?今ここで靴を舐めろと命じられるのならば、靴でも尻でも喜んで舐めてやりますよ?男色の気はありませんが命には代えられませんから」
「ふむ。お前がバルジャジーアの12剣聖達と互角にやりあったと言う、噂の黒炎の騎士か」
「剣の腕なら大陸でも5本の指に入る実力と自負しております」
「ほう、大した自信だな」
「事実ですので」
ミカエラは興味深そうに顎を掌で撫でながらその騎士を眺めていたが、ふと妙案を思いついたらしい。
「いいだろう、ならそこに転がっている元主の首を落としてみよ」
ミカエラの言葉に、気を失っている王子様を抱き締める手に自然と力がこもった。
「あー、エミリオ様の事ッスか?」
「さ、させません…!!」
王子様の腰の剣を抜き、立ち上がるとミカエラ達が失笑する様子が目の端に映った。
何を笑っているのだろうと思ったその時、自分が震える手で持った剣が手元にない事に気付く。
カラン、カラン、
(え…?)
後を振り返ると、さっきまで俺が持っていたはずのエミリオ王子の剣が転がっていた。
目の前には双剣を柄に収めるルーカスの姿があった。
「お姫様がそんなモン振り回しちゃ駄目よ?」
一瞬遅れて剣を持っていた手にジン、と痺れが走る。
恐らくルーカスが俺の剣を弾いたのだろう。
(見えなかった…)
自分で言うだけあって、目の前の騎士の剣の腕は本当に大陸レベルなのだろう。
(俺じゃ、敵いっこない…)
自分の無力感を思い知らされて膝を落とす俺を見て、ミカエラは憮然と言い放つ。
「スノーホワイト・エカラット・レネット・カルマン・レーヴル・ド=ロードルトリンゲイン、お前もだ。生かしてはおけぬ。リンゲインの末裔は未だ民達にとって狂信的な信仰の対象だと理解した」
カツン、カツン、
近付いてくる男の足音に、絶望に打ちひしがれながら顔を上げる。
ミカエラの表情は逆光になっている為、拝む事は出来なかった。
何だか喉がカラカラに乾いていた。口を閉じる事を忘れ、唇を半開きにしたまま浅く呼吸を繰り返していたせいかもしれない。唇まで乾いてる。
(あ…れ……?)
目の前までやってきた男の大剣の鞘に、鎖でグルグルと巻きつけてある紅い宝玉から何故か目が離せない。
(なんだ、この石……?)
その時、パアアと金色の光りが古城の中に飛び込んで来た。
「なんだ…?」
下の湖面が輝きを増すのを見て、教皇国の兵士達がざわめきだした。
「ミカエラ様、やはりこの城は危険です!早く出ましょう!」
「この森は、いえ、この城はリンゲインの聖域です!何が起こるか分からない!」
「あの光、……水竜王がお怒りです!やはりリンゲイン侵攻だけはしてはならなかったのです!」
「何を馬鹿な事を……、今すぐこの女の首を刎ねれば問題なかろう」
「なりませぬ!!ミカエラ様が水竜王の怒りを一身に受け、カルヴァリオが滅びてしまうやもしれません!!」
「お忘れですか!!水竜王の怒りを買って滅びた国々を!!」
過去、ボマーラ草原にはラメアリナと言う国があった。
度重なるリンゲイン侵攻により水竜王の怒りを買ったラメアリナは津波で流され、国土の半分は海に沈み、王城どころかそこに国があったと言う片鱗すら残っていない。
科学の発展していないこの世界では、人智では解明出来ていない事を必要以上に恐れる傾向がある。
俺もいきなり輝き出した湖に驚いていたが、教皇国の兵士達は驚きだけでは済まなかった様だ。
怯える部下達に罵声を浴びせるミカエラにルーカスが軽い口調で間に入る。
「ミカエラ様、この城、リンゲインにとって大事なものらしいんで燃やしちゃいましょうよ。多分直接手に掛けるよりもそれがいいッス。ほら、ここ、この祭壇。これが水竜王を呼び出す鍵らしいんスよねー」
「ルーカスさん…」
こちらの情報をペラペラ話す騎士の背信に、もう涙も出なかった。
ルーカスの言葉に教皇国の兵士達も賛同する。
「そうですよ、教会の御触書でも邪悪な物達には火炙りが良いと書かれていますし、火を放つのがいいのではないでしょうか?」
「ふむ…。まあ、一理あるな」
―――そして、古城に火が放たれた。
俺とエミリオ王子は最上階の中央にある、一番太くて大きな柱に縛られた。
轟々と下で火が燃え広がる音がする。
ほどなくしてこの階にも炎が届くだろう。
(俺、ここで死ぬのかな…)
思い出すのは向こうの世界の事だった。
お袋、亜姫、向こうの友人達。会ったら言いたい事が沢山あったはずなのに、結局会う事も叶わなかった父親。そしてアイツの顔が脳裏に横切って、しめっぽい気分になる。
―――向こうに帰りたい気持ちが痛いほど解るだけに、シゲを恨む気にはなれなかった。
ただ、悲しかった。
「ん…」
その時、エミリオ王子が目を覚ました。
「良かった、エミリオ様」
いつの間にか目の縁に溜まって来てしまった水滴を拭いて誤魔化そうと思ったが、残念ながら今スノーホワイトの手は後ろ手に縛られている。
いつ溢れてもおかしくないそれが零れてしまわない様に顎を上げるが、それは無駄な抵抗でしかなく、すぐに頬を二筋の涙が伝う。
俺はいったい何をやっているんだろう。
何かおかしくて笑えて来た。
涙を落としながら微笑む俺を、エミリオ王子ぼんやりとした瞳で見上げる。
「ここは…?」
「はじまり城のです、火を放たれました。すぐにここにも火が届くでしょう」
「ルーカスはどうした?」
「…………。」
「そうか、すまない」
王子様はまだ意識が朦朧としている様だったが、無言で俯く俺の表情を見て、気を失う前の事を思い出したらしい。
「とりあえず、逃げるぞ」
「え?」
「聞こえなかったのか、逃げるぞ」
後ろ手で縛られたまま王子様はモゾモゾ動き出す。
とは言っても、血が通わなくなる程縄で硬く縛られているのだ。無理だろうと思ったが、王子は自分の手首を縛る縄を半壊している柱の尖った石の部分で擦りはじめた。
なるほど、と思い俺も近くに縄を削れそうな物はないか探すが、運の悪い事に俺の近くの柱はツルリとした質感のままで、擦っても削れそうにはなかった。
「よし、取れた!」
光る水晶玉の様な汗をいつくも弾きながら、王子様が顔を上げる。
「待ってろ、今僕がお前の縄も外してやるからな!」
言って王子様は自分の腰の剣を確認するが、剣はそこにはなかった。
遠くに弾き飛ばされた彼の剣の存在を思い出し、その位置を教えようとするが、――その時、既に俺達は火に囲まれていた。
あの分厚い炎の壁を越えて、剣を取りに行くのは到底不可能だろう。
(駄目だ、もう無理だ…)
「エミリオ様。もう、無理です。お願いです、どうかあなただけでもお逃げになって下さい」
近くに落ちていた小石を拾うと、俺の縄を削り出す王子様のその真剣な様子に力なく首を横に振るが、彼はその手を決して止めようとはしなかった。
「最期まで諦めるな、絶対に助かる」
「でも、無理よ、もう無理に決まってる。だからあなただけでも、」
「無理だったらその時はその時だ、僕が一緒に死んでやる」
「エミリオ…」
―――ドン!と大きな音を立てて古城が傾いた瞬間、微かに残っていた湖の金色の光が消失した。
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