赤死の病 苦い隷属ドレサージュ
バン!!
彼女が今日もいるであろうパブリックスクールの馬小屋に駆けつけると、ホナミ君は今日も馬達に餌をやっていた。
私は彼女の姿を見るなり跪いてプロポーズをした。
「ホナミ君、私と結婚して欲しい!!と言うか、してくれないと真剣に困るのでお願いですから結婚して下さい!!」
「は?って、はあああああああ!?つーかお前、どうしたのその顔!?」
「え?ああ、大した事ないよ」
彼女は私の一世一代のプロポーズよりも、私の酷い顔に驚いてしまった様だ。
ハンカチを取り出した彼女に口元の血を拭われる。
「この意外に女の子っぽい所も良いんだよなぁ」とにやける私の顔を拭きながら、取り乱した様に彼女は叫んだ。
「そんな事ある訳ないだろ!唇切れてる!目、潰れてる!顔の半分以上が青痣で青いんだけど!!左目の辺りなんて黒くなってるけど、マジで大丈夫なの!?痛くねぇの!?」
「あはは、実はユーリと父さんに殴られちゃってさぁ」
「な、なんで!?」
「ベナルデットとの婚約を破棄して来た」
おちゃらけた口調を真剣な物に変え、低い声で事実を告げる。
彼女はその言葉で全てを察したらしい。
「でも、これで君にやっと言える。ホナミ君、私は君が好きだ。ずっと好きだった。私と結婚してくれないか」
彼女の手からハンカチが落ちた。
口元を抑え、震えだすホナミ君の姿に今更ながら不安が過ぎる。
「ば、馬鹿。だって、そんな事したら…、」
(――あれ? 今更だけど私達って両想いで合っているよね?)
なんとなくだけど、彼女も私と同じ気持ちなんだと勝手に思ってた。でもこれが私の勘違いだったらどうしよう。ここで振られてしまったら目も当てられない…。
「うん、爵位も剥奪されたし家も追い出されたよ。この学園もクビになった。えへへ」
「えへへじゃねぇよ!!――…お前……馬鹿じゃねーの?」
「ホナミ君は馬鹿は嫌いかな?」
「……アタシだって、馬鹿だ」
何故か妙に緊張していて、彼女の肩を抱こうと伸ばした手が震えていた。
震える手で俯く彼女を抱きしめる。――…彼女は私の事を拒まなかった。
自分の胸の中で震える少女の耳元で、我ながらあまり格好の付かないプロポーズの続きをする。
「爵位も家も職も何もない、一文無しの無職のおじさんじゃやっぱり駄目かな」
「……オッサンって言った事、まだ根に持ってたの?」
「うん。20代の内はお兄さんって言って欲しかった」
「はいはい、悪ぅごさんしたお兄さん」
「ごめんね。先生学校もクビになっちゃったけど、すぐに仕事探すから。何がいいかな?ホナミ君は何が良いと思う?私は教える事位しか能がないから、学習塾でも開いてみるのがいいのかなと思うんだけど、二人で何かお店屋さんでも始めてみるのも楽しそうだね」
「…………。」
「何でもいいよ?ホナミ君が私と伴に生きてくれるのならば、私は何だってしよう。私にして欲しい事があれば何でも言ってくれ。君の頼みならば全力で叶えてみせる。君が元の世界に帰りたいと言うのならば、私も向こうに一緒に行くよ。その覚悟なら既に出来ている」
「…………。」
普段通りの口調で話してはいるが、噛み噛みで。実はもう何度か噛みそうになっていた。
(ホナミ君、頼むよ、早く頷いてくれ)
じゃないともう無理。噛む。
心臓爆発して死んじゃう。
「ああ、そうだ!ホナミ君、べっこう飴作るの好きだったよね?毎日昼休み作ってたし。飴屋さんでも一緒に始めるかい?」
「この、馬鹿!!馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!!!!」
「え、何、いきなりどうしたの、ホナミ君!!」
ホナミ君はいきなり叫びだすと、肩を抱く私の手を振り払った。
やり場のない私の手が宙を彷徨う。
オロオロと狼狽える事しか出来ない私の胸倉を彼女は掴んだ。
「お前の事なんて、だっ、だ、だ、だい、だい、…………だ、だ、大好きだ!!!!」
「ほ、ホナミ君!?」
彼女の顔は耳まで真っ赤に染まっている。
「いいよ!!異世界の十も年の離れた無職のおっさんでも、もう何でもいいよ!!結婚してやる!!その代わり絶対アタシの事幸せにするんだぞ!!約束だからな!!」
「うん!!す、する!!絶対する!!」
「って、ちょっと待て!!」
そのまま馬小屋の中で押し倒すと、私は平手打ちをされ胸板を蹴飛ばされた。
起き上がりこぼしの様に瞬時に身を起こして叫ぶ。
「え、ええええええ―――っ!!なんでぇ!?ここは気持ちを確かめ合った二人が、服を脱ぎ捨て愛し合う所じゃないの!?」
「初エッチの場所が馬小屋はないだろ!!近寄んな変態!!」
ヒリヒリ痛む頬を抑えながら叫ぶ私から自分を守る様に自分の体を抱きしめながら、ホナミ君は毛の逆立てた猫の様にフーフー言う。
どうでも良いが私を蹴り上げた時から短過ぎるスカートが捲れ、下着が見えている。
どうやらホナミ君は今日は”みせぱん”を履いていないらしく、健康な成人男性の私からすると目に毒だ。……いや、それを言ったら彼女が普段履いている”みせぱん”も十二分に目の毒なのだが…。
「今の時間、ここなら誰も来ないと思うし、穴場だと思うんだけどなぁ…」
「…………本気で言ってるなら、さっきの取り消させて貰うけど」
「う、嘘嘘!冗談だよ!!」
女心って難しい…。
「じゃあどこなら良いんだい?」
「知らねーよ、自分で考えろ!!」
それから色々場所を提案したが、ホナミ君は頑なに首を縦に振ってはくれなかった。
そして何故か彼女の私を見る目がどんどん冷たくなって行く。
「もう三年も待ったのにこれ以上待てないよ!!ならどこなら良いの!?先生家追い出されたからうちは無理だし、無職だから宿に泊まるお金もないよ!?更衣室が良いかな!それとも教員室!?あっ、クビになったって言っても、退職準備期間の猶予は私の部屋が使えるかも!!そこでする!?」
真剣に初めて愛し合う場所を真剣に考える私に、彼女は暗い顔でぼやく。
「……どうしよう、やっぱこんなオッサンと結婚するのやめといた方がいいのかな…」
「えええええ、なんでぇ!!」
かくて私はまたしてもお預けを喰らう事になった。
確かに今はホナミ君の言う様に、住む場所を探すのが先決かもしれない。
****
それからすぐに、私達は街外れにある小さな教会で結婚式を挙げる事になった。
祝福してくれる人は少なかったが、それでも幸せだった。
「今月生理遅れてるんだよなぁ。もしかしてこれ、出来ちゃったのかな?」
結婚式前夜、お腹を触りながらそんな事をぼやくホナミ君に求人誌を捲っていた私の手が止まる。
「ほ、本当に!?どどどどどどどうしよう!?私はまだ無職のままなんだけど!!いいいいいいい急いで仕事探さなきゃ!!」
「仕事始まったらイチャイチャ出来ないじゃん、もうちょっと新婚気分楽しんでからでいいんじゃないの?」
「そ、そんな訳にはいかないよ!!私には父親としての責任が!!ああああああ、どうしよう、どうしようどうしよう!?」
椅子の上から飛び上がり、家の中で右往左往する私を見つめるホナミ君は冷静だ。
「いや、まだ妊娠検査薬使ってないし。つーかこの世界って妊娠検査薬ないよな?どうやって妊娠してるか確かめるの?」
「どうやってって、お腹が膨らんで悪阻が始まったら妊娠したって分かるだろう?――…ああ、嬉しいよ、とっても嬉しい。名前はどうしよう?」
「女の子だったら姫は付けたいな。男の子だったら、王子 か騎士 」
「やめてホナミ君、やめて。それだけはどうかやめて下さい」
「は?だってハルは貴族だし、平民のアタシからすりゃ王子様みたいなもんじゃん? だから姫と王子が妥当かなって」
「もう私は爵位も取り上げられた平民なんだから王子と姫はやめましょう、お願いします」
「なんで!?どうして!!姫だけは絶対外せない!!」
「……以前からホナミ君とは子供の名前について、腹を割ってじっくり話し合わなければならないと思っていましたが、ついにこの時が来た様ですね」
絨毯の上に正座をし、こちらに座れと絨毯をぺんぺん叩く私から逃げる様に「あっ!」と彼女は叫ぶ。
「そだ。アタシ、ベルちんに呼ばれたからちょっと出かけて来る!」
「ベルナデット王女が?何故?」
その時から嫌な予感はしていたんだ。
「過保護だなぁ。着いて来なくても大丈夫だよ、お祝いしたいって言ってるんだから、そうなんだろ」
「でも、心配です…。夜道は危ないので、可愛い奥さんを一人で外出させる訳にはいきません。先生、途中まで着いていきます」
「もう先生じゃねぇだろ」
「ああ、そうだった」
「ったく、本当にうちの旦那様は過保護だよ」
手を繋ぎながら夜道を歩く。
ブツブツ言ってはいるが、ホナミ君も私に世話を焼かれるのは嫌ではないらしい。
青白い月光に照らされた横顔が赤い。
「あ、ホナミ君、満月だよ!綺麗だねぇ」
「今夜の月は青いんだね」
「うん、そうだね。この満月が消えたら次は黄色い月の夜が来る」
「ふーん」
「青い月の満月は精霊達の動きが活発になるんだ。彼等の力が最も強力になる夜でもある。だから今夜は森に近付いてはならないよ。森には精霊が多い。紅い月の夜とはまた違った危険の潜む夜だから」
「はーい!」
言っていて、自分の言葉に妙な胸騒ぎを覚えた。
何故ベルナデットはこんな時間に、ウンディーネを祭る水の神殿に彼女を呼び出したのか。
この国で最も神気で溢れ、人の世でウンディーネの力が最も発揮出来る場所に。彼女の力が一年で最も強力になる、夏の青い満月の夜、――…マナの祝祭日に。
「じゃ、ちょっくらベルちんと話して来るわ」
「うん、行ってらっしゃい」
いつも通りの笑顔で「行ってきます」と元気に言うと、ひらひらと手を振り神殿の中に消えて行く彼女の背中を見守る。
それが私が見た彼女の最後の姿だった。
―――そして、彼女は消えた。
「ホナミは、ホナミ君はどこだ!ホナミ君をどうしたんだベルナデット!」
「あら、ライナー兄様、ここは男性禁止の水の神殿だと言う事をお忘れですか?」
ベナルデット王女は淡々とした口調で言う。
黒いフードを目深に被った彼女の表情を垣間見る事は出来ない。
「なんなんだ、一体何をした!?この尋常ではない、強力な魔力の痕跡は!!」
「たった今、聖女様が異世界にお帰りになられました」
「そんな…、」
―――信じられなかった。
「そんな、ありえない!!だって彼女は…、」
「元々こういう運命 だったのですよ。こちらの世界を救い、聖女としての役目も終え、彼女は元の世界に帰る時間が来た。ただそれだけの事なのです。」
「そんなわけない!彼女はこの世界を選んだんだ、そしてこの世界で私と結婚する事を選んでくれた!!――まさか、お前、」
「何でそんな目で私を見るのですか、ライナー兄様。酷いわ、もしかして私を疑っていらっしゃるの?」
「……いや、そんな事は…、」
力なく、神殿の冷たい大理石の床の上に落ちていた彼女の茶色い革靴――ローファーを拾う。
(でも、こんなの信じられない…)
彼女が私に何の相談もなしに元の世界に帰るだなんて、ありえない。
彼女は向こうよりもこちらの世界の方が好きだと常々言っていたのだ。そして私の事も好きだと言ってくれた。私と一生一緒にいると言ってくれた。
―――そんな彼女が今、何故。結婚式の前夜に、何故。一体どうして向こうの世界に帰ると言うのだろう?
「ねえ、兄様。私は婚約破棄の事を別に怒ってはいないのです。あなたの気持ちが落ち着いたらでいい、私と結婚してくださいませんか?」
私の背中にしなだれかかってきた王女を振り払う気力もなかった。
「こんな時に、やめてくれ…」
「こんな時だからこそです。ライナー兄様、私と」
「……無理だ、私は生涯ホナミ君以外の女性を愛せない」
「無理に忘れて下さいとは言いません、いつか聖女様はまたこちらの世界に戻ってくるかもしれません。その時まで、仮初でも良いのです、私と家族ごっこをしては下さいませんか?」
「そんなの、ありえない」
吐き捨てる様に言って、彼女の手を振り切って神殿を出る。
そうは言った物の王家の手回しにより、私はその後職にありつく事が出来なかった。
国外に出る事も考えたが、ホナミ君がもしこの国に戻って来た時の事を考えると国外に出るのは得策ではない。
その後、何度も何度も陛下や両親、親戚一同に説得され、私はベナルデット王女とあらかじめ決められた結婚をした。
結婚の後押しはベルナデット王女のこの一言だった。
「ホナミにもう一度会いたくはないのですか?このままここで野垂れ死にしたら、二度と彼女と会う事も愛し合う事も叶いませんよ」
路地裏で飢え死にしかけていた私の元に現れたのは死神ではなく、ベルナデット王女だった。――…いや、今思えばあれは恐らく死神だったのだろう。
現にあの日、私の心は死んだのだから。
「私は今、あなたに契約婚を持ちかけているのです。父亡き今、私は一人でこの国を守り切る自信がないのです。私はライナー兄様に王位に就いて、私と伴にこの国を守って欲しいのです。私はあなたの優秀な遺伝子が欲しい。この危うい国際情勢の中で、リゲルブルクを守る事が出来る優秀な王子が欲しい。王子さえ私に授けれくれれば、そうすればまたホナミをこちらの世界に召喚しましょう。その後はどうぞ、二人でお好きになさってくださって構いません」
「契約婚か…」
そう言われてしまえば私は彼女に逆らえる訳がなかった。
ベルナデット王女以外に、この世界で聖女を召喚出来る人間はいないのだから。
―――そして私は彼女と結婚した。
結婚して一年後、私とベルナデットの間に王子が産まれた。
長きに渡る近親婚の血が薄まったと言う事で、その赤子はとても健康だった。
「これで問題ないだろう、約束通りホナミ君に会わせてくれと」迫る私に、ベルナデットは取り乱す。
中々男児に恵まれない近年の王室事情から、彼女はそう簡単に王子が産まれるとは思ってはいなかったらしい。
「もう聖女を召喚するのは無理なんです!!だって彼女を向こうに帰したあの日から、ウンディーネは私の前に現れてくれなくなったのだから!!」
その言葉に、私はすぐに自分が彼女に騙されていた事に気付いた。
「……聖女召喚には、ウンディーネの力も必要と言う事ですか?」
「そうです!!だから私一人の力だけでは――、」
「その理屈からすると、彼女を向こうに帰すのもあなたとウンディーネの力が必要となりますね」
まずいと気付いたらしいベルナットが自分の口を塞ぐ。
「今の話からすると私に契約婚を持ちかけたあの日、あなたは既にウンディーネとコンタクトを取る事が出来ない状況下にあった。それなのに私と結婚して、王子を授かる事が出来ればホナミ君をこちらに召喚すると嘘の取引を持ち掛けたのか」
「ち、違…、」
「何も違わないでしょう。……なんて女だ、お前には失望した」
「ライナー兄様!!私は、ただ、あなたの事を…!!」
「”彼女を向こうに帰したあの日”について詳しく話せ、ベルナデット」
いつもベルと愛称で呼んでいた彼女を冷たく名前で呼ぶと、ベルナデットの顔が引き攣った。
やはりあの夜、ホナミ君はベルナデットの手によって元の世界に強制送還されてしまったらしい。
ベルナデットに嘘を付かれた事へ対しての怒りよりも、二度と彼女に会えないと言う絶望の方が勝った。「ウンディーネがまた私の前に現れてくれたら、もう一度ホナミを召喚しますから!!」と言われてしまえば、この城を去る事も国王の任を放棄する事も出来なかった。
「異世界、か」
同じ空の下にいるかも判らない彼女に、日に日に想いは募って行く。
『アタシ、空が好きなんだよね。こうやって何も考えずにボーっと眺めるのが好き。嫌な事があっても、すぐに忘れちゃう』
『それは良い事を聞いたなぁ。先生も今度何か嫌な事があったら空を見上げてみる事にするよ』
例えこの空が君の元に繋がっていなくても、君がどこかで私と同じように空を見上げているのなら。私もずっと空を見上げていよう。
ホナミ君の言う通りだ。
空を見ていると、本当に嫌な事が忘れられるんだね。
でも。手を伸ばせばもう少しで君の空へ手が届きそうなのに、足が重いんだ。
仮初の家族。形ばかりの家族が、重い足枷となって私を大地に戒める。空 への逃避を許してくれない。――…今日も彼らは責める様な瞳で私を見ている。
「父上、勉強を見てくださいませんか?」
(ああ、また来たのか。この忌々しい王子 が。)
コレに自分の事を父と呼ぶのを止めさせたい。
もしホナミ君が帰って来た時、コレを見たらどう思うだろうか?
あの時彼女が妊娠していたのならば、私と彼女の子供はもう既に産まれているはずだ。息子か娘か分からないが、その子供がコレを見たら一体どう思うだろうか?
(ホナミ君と私の本当の子供がコレを見て傷付かない様に、苦しまないように、今すぐ---てしまいたい)
いない者の様に扱っても、コレは何度も私の元を訪れて私を苛々させる。
「父上、今日の午後、ロクサーヌ画伯がいらして、絵画の授業があったのです。それで父上の似顔絵を描いてみたんです、あの、良かったら、」
ああ、コレは何故私を見上げてはにかんでいるんだろう、気持ちが悪い。
私はお前と親子ごっこなんてするつもりはないんだ、やめてくれ。
本当に失敗した。やはり子供を作ったのは間違いだった。子種を提供するだけの約束だったのに、ベルナデットもコレも周りの人間達も最近になって私に父親としての役割まで押し付ける様になった。
(彼女が戻って来る前に、妻子共々---してしまうべきなのか)
差し出された似顔絵を無言でビリビリに破いて捨てれば、ソレはその後、無神経に私の部屋を訪れる事をしなくなった。
やっと父親に忌む者扱いされている事に気付いてくれたらしい。
「父上、本日私の弟が生まれました。お忙しいのは分かります、でも、どうか顔だけでも見に行ってやってくれませんか?弟を、抱いてやってはくれませんか?」
だから何だ?
「……母が……先程、亡くなりました…」
だからそれが何なんだ?
何故コレは私の部屋に来る、私には何も関係ない事だろう。
一人王子を作った後は、もう夫婦生活をするつもりはないと言ったのだが、あの後何度か私はベルナデットに薬を盛られた。
そしてまたしても忌々しい悪魔が産まれてしまった。
意気地のない私は、膨らんでいくベルナデットの腹を--り、---させる事も出来なかった。
(ホナミ君が戻って来た時、薬の事を話せば誤解は解けるだろうか? 私の事を許してくれるだろうか?)
そもそもこの結婚自体が間違いだったんだ。
逃げたい。どこか遠くに。――…もし出来るのならば、彼女のいる異世界に今すぐ逃げてしまいたい。こんな仮初の家族なんか捨てて。
「私は忙しい。ウーヴェ、早くこれを連れて行け」
年々私を責める様な息子の瞳が、妻の物よりも鋭くなって来た。
―――私はいつか、この息子に殺されるだろう。
父親としての愛を与える事もなく、存在自体を無視して空気の様に扱ってきたこの息子に。
しかしそれも悪くない気がするのだ。
何故なら、私はホナミ君がいないこの世界で生きる意味を見いだせないのだから。
最近、死んだら彼女の元へ行けるのではないかと思う。
青い空の向こうとは、もしや死後の世界で彼女のいる異世界なのではないだろうか?
ホナミ君は今日も空を見上げているだろうか?
ホナミ君が見ている空も青いのだろうか?
「ホナミ君…」
執務室の机の鍵を開けて、彼女が残して行った茶色い皮靴を手に取る。
―――シンデレラは戻らない。
机の中に大事に閉まっていた小箱を開けると、懐かしい文字が目に飛び込んで来た。
彼女特有の丸い癖のある文字。
ホナミ君と文字の書き取りや、やり取りをした異界の文字。
懐かしい異界の文字を指でなぞる。
「せんせい、だいすき」と言う文字が目に飛び込んできた瞬間、目頭が熱くなった。
オギャアアアアア!!
望みもしなかった赤子の産声が耳障りだ。
どんどんその悪魔の産声が部屋に近づいてくる。
恐らく先程の私の態度に、――いや、今までの私の態度に、我慢がならなくなったアレが赤子を連れて来たのだろう。
バン!!
「お前の息子だ!!一度位は抱いてやってもいいんじゃないか!?母上は、最後までお前の事を…!!」
ああ、私はきっとそう遠くない未来、ベルナデットと同じ青い瞳のこの子供に殺されるのだろう。
―――涙で濡れたその子供の目は、私への憎悪で満ちていた。
「私のやり方に何か文句があるのならば、早く大人になれ。そうして一刻も早く私を越えて、私から王位を捥ぎ取るが良い。それまでは私がこの国の最高権力者で、この国の法律だ。――ウーヴェ、早くソレを連れて行け。今度は二度とこの部屋に入れないようにな」
「はっ」
その子供の青い目は、私の事を「人殺し」と罵っていた。
はは、笑わせてくれるね。――…死んでしまいたいのはむしろこちらの方だ。
あの女が死んでしまったのならば、もうホナミ君を召喚できる人間はこの世にいないのだから。
0 komentar:
Posting Komentar