3・殺戮と破壊の間で守ってる
まずい。アキラ・アキの年齢が4歳上がったのと同時に穂波さんの年齢も4さい上がった事を失念していた…。
ぴちゃん、
霞む視界の中で、金色の何かがゆらゆらと揺らめくのを見送りながら私は自嘲気味に微笑んだ。
(これは……本格的にまずいかもね)
今リディアンネルを戒めている『焚刑 の呪鎖』とは、かつて西の大陸で魔女狩りが大流行した時代に、魔女をいたぶり殺す為に作られた物だ。
魔女はこの鎖に戒めれてしまえば最後、全ての能力が封じられてしまう。
今のリディアンネルはただの人の子と変わりない。
「威勢が良いのは最初だけ? つまらないわ」
濡れた黒い鎖を手元に引き寄せると、妖狐は赤を一舐めして妖しく微笑む。
「このままじゃ二度と愛しい男に会えずに死んじゃうかもね」
(それでも良い…)
むしろその方が良いと思うのは、ずっと好きだった幼馴染を「好きじゃない」と否定して逃げ続けた残杯冷羹な三浦亜姫の記憶のせいかもしれない。
あの頃だって言おうと思えばいつだって「好き」と彼に告白出来たはずなのだ。そして他の女の子 達と戦う事だって出来たはずなのに、三浦亜姫にはそれが出来なかった。―――…弱かったから。
鏡の事は好きだ。……好き、なんだと思う。
鏡と出会って幼馴染の事を思い出して胸が痛む回数は減って行き、今では完全になくなった。
鏡の事が好きだからこそ、ここでは絶対に譲れない。―――…ここでこいつに媚びて助かったとしたら、それはもう愛じゃない。
―――それよりも何よりもそんな格好の悪い御主人様 、鏡には相応しくない。
「さようなら、鏡の女王様」
妖狐の手元の『焚刑 の呪鎖』が黒い炎を纏う。
鎖の上を流れる様に走る炎を見て、来るべき次の衝撃に備え、私が目をギュッと瞑ったその時の事だった。
「ホナミー、どこだーい」
間の抜けた男の声が冷たい地下牢全体にに響く。
「ホナミくーん、ここかなー?」
(え…?)
カツン、カツン、
「クソッ、こんな時に!!」
男の声と地下に降りてくる足音に、妖狐は舌打ちしながら顔を白い狐面で覆う。
妖狐が面を外した瞬間、彼女の顔どころか服装までもが変化する。
現れたのは私にとって非情に馴染み深い黒髪黒目の少女の顔だった。
彼女が身に纏ったポップなカラードレスは、刺繍やフリルをアクセントに使用したデザインの物で、向こうの世界のリア充御用達ブランドジルなんとかのドレスを彷彿させる。
(このドレス…、)
実は私は(結婚予定もないのに)結婚情報誌を買った事があった。
学校帰りにコンビニの雑誌コーナーをうろついていたその時、突如目に飛び込んで来た結婚情報誌に、私の頭の中に突如神が舞い降りた。
当時向こうの世界で運営していた同人サイトで、「エミリオたんにウエディングを着せなければならない!」と言う使命感にも似た衝動が湧き上がってきたのだ。
今妖狐の着ているそのドレスは、家のリビングで最萌キャラに着せるドレスを真剣に選ぶ私の横から雑誌を覗き込んだ母が、「私もあと10歳若かったら着てみたかったわぁ」と指差した花柄のドレスに良く似ていた。
ただの偶然だろうが、若かりし日の母と同じ姿の女がそのドレスを着ているその光景に胸が締め付けられる。
「ホナミはここですわ、陛下」
「ああ、こんなところに」
(陛下……ってまさか、ラインハルト国王陛下!?)
私は目の前に現れた中肉中背のその男を凝視した。
年の頃なら40前後。男は白い物が目立ち始めているシナモンブラウンの髪を後で適当に縛っている。その髪は色こそ違えど、弟のアキラのハリネズミの針の様な髪質と同質の物に見えた。
牛乳瓶の底みたいな厚さの丸眼鏡は良く言えば学者肌、悪く言えばオタク臭い。ジュストコールもジレも全体的に高価な物を着ているのは一目瞭然なのに、どこか野暮ったく感じてしまうこのファッションセンスはもしや遺伝なのだろうか。
―――一目で分かった。
(お父さん…!)
「ホナミ君、こんな所で一体何をやっていたんだい? そろそろ午後のお茶の時間だろう?」
「お父さん!!」
こちらを見向きもしない中年男の背中に、潰された喉で声を振り絞って叫ぶ。
「は?」
ポカンとした表情でこちらを振り返った男のシナモン色の目に、鎖で縛られた魔女が映る。
「お父さんなんでしょう!?私、アキだよ!三浦亜姫!なんでか今はこの人の体の中にいるけど……私、あなたの娘のアキなんだ!!お母さんも元気だよ!!アキラ君……ううん、双子の弟も元気!!」
「君は…?」
「だからあなたの娘の三浦亜姫だってば!!お父さん、会いたかった!!お父さん、お父さんなんだよね!?あなたがお母さんの言ってた”ハル”なんでしょう、ラインハルト国王陛下!!」
「まさか、そんな事ある訳…、」
限界まで開かれた男の目が揺れる。
「鏡の女王、錯乱でも…?」
口を阿呆の様に開けて立ち尽くす男と、不気味な物でも見ている様な顔になる女。
(お願い、届いて!!お願い!!)
「私のお母さんの名前は三浦穂波、神奈川県鎌倉市鎌倉山出身!得意料理はべっこう飴!って言うかうちのお母さん、べっこう飴以外はギョーザくらいしかまともに作れない!こっちに来た時は15歳の時って言ってた!セーラー服の腰にバーバリンのセーター巻いてた、金髪ルーズのギャルギャル聖女様!覚えてるでしょう!?馬にチョコレートを食べさせようとしてお父さんに怒られた、偏差値32のパッパラパー!」
「まさか、……そんな、まさか…、」
「陛下…?」
口元を押さえワナワナと震えだす男に、妖狐が戸惑いの表情を見せはじめる。
「お父さん、お願いだからそんな偽物に騙されないで!お母さんが悲しむよ!!お母さんはあっちに戻ってからもお父さんの事だけ思い続けて、女手一つで私達を育ててくれたんだよ!!今のお父さんの姿を見たら、きっとお母さん悲しむ……よりも、怒るだろうな…。うん、確実に怒るわ」
「君は……本当に、ホナミ君の…?」
一歩こちらに近寄った男の筋張った手が、私の頬に触れようとしたその時――、
ブワッ!!
妖狐の持った扇子から出た金色の炎が男の全身を包む。
「お父さん!お父さん!!」
炎は男の衣服や肌を燃やす事なく鎮火する。
炎が消えた時、男の目は虚ろになっていた。
「行きましょう、陛下」
「ああ……そうだね、ホナミ君」
「お父さん行かないで!!」
妖狐に背中を押されるがまま、牢屋から出ていく父の背中に必死に叫ぶが父がこちらを振り返る事はなかった。
牢を出る瞬間、妖狐が一瞬だけ鋭い視線をこちらに投げかけた。
「―――…お前は、何者だ?」
それは私に対しての言葉と言うよりは独り言の様でもあった。
「陛下、お疲れの様ですしそろそろお休みになりましょうか?」
「ああ、そうだね…」
「お父さん!!」
(駄目だ、このままじゃ…!!)
―――このままお父さんを行かせちゃいけない!!
「―――……泡沫 の道化 背徳の黒き翼よ
晦冥の夢 虚構なる幻日、我が空蝉の半身よ
永劫なる輪廻の輪を歪めし忠実なる我が僕よ
今我の呼びかけに応え、盟約を果たせ!」
一人になった牢の中で呪文を唱え、術を発動させると、燭台の溶けたロウの上に止まっていたコウモリとリディアンネルの体の位置が変わる。
燭台の上から床に転げ落ちて、顔を顰めながら腰を擦る。
「あー……いたたたた、本当手加減なしにやってくれるじゃない、あの狐」
髪をかき上げながら皮肉った瞬間、さっきまで鎖に縛られていたリディアンネルの居た場所に転移したコウモリが焼け落ちて灰になる。
灰が崩れ落ちる様子にリディアンネルの背中に冷たい物が伝った。
あと数秒遅れていたら、ああなっていたのは私の方だった。
(念のため、身代わりコウモリを用意しておいて良かったわ)
これは魔女が良く使う魔術の一つだ。
しかしこの術も万全ではない。
身代わりのコウモリが受けたダメージの半分はこちらの肉体にもやって来る。
ガクン、
立ち上がった瞬間、私の身体は膝から崩れ落ちる。
床の冷たい煉瓦の上に手を付きながら苦笑した。
(困ったな。これじゃ、歩けないわ…)
魔女の肉体とは人妖の中では最弱に位置する脆さだ。
元々魔女とは魔力と寿命が人間よりも多いだけで、その肉の強度は人間と代わりない。
―――その時、
パアアン!!
水がはじける音と共に、温かい光に包まれる。
光が消えた瞬間、リディアンネルの身体の傷は全回復した。
(これは…?)
『お願いアキちゃん!ラインハルトを正気に戻してあげて!!』
「あなたは…?」
直接頭の中に響いた、謎の少女の声に辺りを見回す。
『私はこの国の女神ウンディーネ、あなたをこの世界に召喚した召喚主よ!』
「え、ええええ!?」
『今は詳しい事情を話している時間はないの、このままきゃ彼もリゲルブルクもこの世界も終わってしまう!どうか私達を助けて!!』
「よ、良く分からないけど…!うん、分かった!!」
『流石アキちゃん!物分りの悪い弟の方とは大違い!!』
「弟って、……まさかアキラ君をこっちに召還したのもあなたなの!?」
『だから今は時間がないんだって!!ほら早く追いかけましょう!!』
「え、ええ…」
釈然としない物を感じながら、徐々に朧げながら見えて来た自分の手を引く水色の髪の少女の背中を見つめる。
(なるほど。リゲルの王室に加護を与えていると言う、噂の水の精霊か)
何故か妙におかしくて急に吹き出してしまった。
『アキちゃん、何で笑ってるの?』
「ん?うん、なんでだろうな」
不思議そうにこちらを振り返る精霊に苦笑の様な物で返す。
―――こんな非常事態なのに、もしかしたら死んじゃうかもしれないのに、何故かワクワクしている自分がいた。
つまらない日常、繰り返しの毎日。
家と学校を往復するだけの味気ない日々の中、私はずっとこんな非日常を探してた気がする。
小さい頃「なんでお父さんがうちにはいないのか?」とぐずって眠らない私に、「アキラには秘密よ、女同士のナイショのお話ね」と悪戯っぽく笑いながらお母さんが話してくれた異世界の恋物語。
うちにあるどの絵本よりも大好きだった、お父さんとお母さんの物語。
うちのお母さんが聖女として異世界に召喚されて、王子様やお姫様と世界を救ったと言うデタラメな冒険劇。
(もしかしたらこれは夢かもしれないけど、こんな面白い夢中々みれるもんじゃない。―――…夢なら目が覚めるまで全力で楽しんでやる)
「さてと、追いかけるとしましょうか」
ボン!
ボロボロになった服を、鏡の女王のあの固定衣装に戻す。
最初は恥ずかしかったこの露出度の高いいかにもと言った悪の女王様風の衣装だが、今はこっちの衣装の方が自分に似合っている様な気がする。
(詳しい事情は良く分からないけど、あんな偽者にお父さんの事は渡せないわ)
カンカン!と階段を駆け抜けて、牢の番だったらしい老女に術をかけて眠らせる。
『おおー!流石は鏡の女王!』
「こんなの初歩中の初歩の術よ」
この高いヒールも、慣れれば階段を駆け上がる事も造作もない。
この手のハイヒールで歩くのも走るのも実はコツがある。何事も経験だ。
夢から覚めて三浦亜姫に戻ったら、食わず嫌いをしていた系統の服や靴に手をだしてみるのも良いのかもしれない。
色気付いた服を着て、めかし込む自分の姿を見て驚く弟や幼馴染の顔はきっと見物だろう。
****
「五分だけ時間をやろう」
ミカエラのその言葉に戦いは一時中断した。
二国の主要メンバーが集まり、重苦しい空気の中、一番最初に言葉を発したのはエミリオ王子だった。
「どうする、と言うかどうしたい?――…リンゲインはお前の国だ。ここはお前の指示に従うのが筋だと思うのだが。スノーホワイト、お前はどうしたい?」
―――”私”はどうすればこの場が丸く収まるのか良く分かっていた。
「降伏しましょう」
”私”の言葉に、リンゲイン、リゲル双方の人間達から反論の声が上がる。
「姫殿下!そんな、いけません!!」
「それでは我々、栄えあるリゲルの騎士の名が泣いてしまう!!」
「今の時間帯は魔物も寝ているわ。昨晩の様に、血の匂いに誘われて森から出て来た魔物達の乱入も狙えません。―――…降伏して私が捕虜になります」
ミカエラの方をチラリと盗み見すると、彼は興味深そうな目でこちらの成り行きを見守っていた。
距離があるので向こうには聞こえないはずだが、何とはなしに声を潜めながら、不満気な顔でこちらを見守るリゲルブルクのメンバーを振り返る。
「一番最悪なパターンはリゲルの直系であるエミリオ様が人質に取られてしまう事です、そうしたらアミー様は動くに動けなくなるわ。幸いエミリオ様がここにいる事はまだ向こうにはバレていない様です。私が捕虜になると言って時間を稼ぐので、そうしたらルーカスさんは兵に紛れてエミリオ様を連れて逃げて下さい」
「だそうですよ、エミリオ様」
気安くポンポン頭を叩く不敬な騎士にエミリオ王子は反応する事もなく、腕を組みムスッとした顔で何やら考えている様だった。
「スノーホワイト、俺は?俺は?まさか俺に君をおいて帰れなんて言わないよね!?」
「ええ、ヒルには捕虜になった私の護衛をお願いしてもいい?」
「うん!」
捨てられた犬の様な顔付きになっていた騎士の顔が輝くのを見て、”私”は一つ頷く。
「皆、安心して。ミカエラ様には民には絶対に手を出さない様に言って来ます。この国の王女として生まれた癖に、今まで王女らしい事を何一つ出来なかった私だから、―――…だから、せめてそれだけはさせて欲しいの」
「姫様、姫様…!」
「姫殿下…立派になられて…」
リンゲインから逃げて来た城の者達は泣いていた。
彼等の肩を叩いた後、”私”は立ち上がった。
「ごめんなさい、エミリオ様。リゲルの皆さん。せっかく来て下さったのに」
苦虫を噛み潰したような顔をしているリゲルブルクのメンバーに頭を下げると、”私”は彼等から離れて前に出た。
「お初にお目にかかります、ミカエラ様。リンゲイン独立共和国の王女、スノーホワイト・エカラット・レネット・カルマン・レーヴル・ド=ロードルトリンゲインにございます」
「ほう、お前が噂のリンゲインの深窓の姫君か、これは噂以上だな」
海岸から吹きつける狂暴な風は、砂埃を巻き上げると渦を巻いて”私”とミカエラの間を通り過ぎる。
足もとがよろける程強い風が通り過ぎた後、先に動いたのはミカエラだった。
「ローレンスがミュルシーナの美し過ぎる忘れ形見に日夜気を揉み、死んでも社交界に出というのが頷ける美貌だ、これは見事だ」
「え…?」
自分の事が外の国に、その様に伝わっていただなんて全く知らなかった”私”は呆気に取られてしまう。
気が付いた時、ミカエラは驚く程”私”の近くまで来ていた。
ミカエラは”私”の髪を一筋取ると、それに口付けながら嘯いた。
「この美しき黒髪 が寝台で淫らに踊る様は、さぞかし見物であろうな。この高貴の黒は、恥辱に染まった雪肌に良く映えるだろう」
クイッと顎を持ち上げられた瞬間、彼の言葉が意図する事を察し奥歯を食いしばる。
しかし今の”私”はこの狼藉者に「無礼者!」と言って、その手を叩き落す事は出来ない立場だ。
ミカエラの言葉に騒めく民達を一瞬だけ振り返って目で牽制した後、また教皇国の王に向き直る。
誇りだけは失わない様に、背筋を正し凛とした顔のまま告げる。
「私の事はどう扱ってくれてもかまいません。その代わり民と彼らの財産には手を出さないで欲しいのです。ご存知の通りリンゲインは貧しい国です。家屋を焼かれ、田畑を荒らされてしまっては今年の冬を越す事は出来ません」
ワアッ!と泣き伏せる城の者達の嗚咽に、敗戦国の――…いや、弱小国の王の罪深さを痛感する。
(弱いとは悲しい事ね…)
ごめんなさい、あなた達を守る力もない非力な王女でごめんなさい。でも、今は耐えて。
―――私もリンゲインも、いつか必ず強くなってみせるから。
(その時は私が絶対にリンゲインを守ってみせる…)
「良い覚悟だ、しばし私の側女にしてやろう」
「…………。」
側女と言う露骨な言葉に思わず顔に嫌悪の色が出てしまったらしい。
ややムスッとした男の顔にまずいと思う。
「お前の態度次第で、民達がどうなるかは分かっているな?」
「は、はい!」
従順な態度を見せれば、ミカエラは嘲うように右の口角を上げた。
「――――ではまず服従の証に、地面に這いつくばって俺の靴を舐めろ」
「え…?」
「聞こえなかったか?たった今からお前は俺の犬だ。名も無き雌犬だ。今日から俺の許可なく二本足で立つ事は許さぬ。ほら、早く犬の様に四本足になり、尻尾を振りながらご主人様の機嫌取りをしてみるがいい。――…そしてリンゲインが私の犬となった証を、この衆目の場で見せてみろ」
どうやら本気らしい。
あまりもの屈辱的な命令に言葉を失ってしまった。
「『どうかお情けをかけてください、ご主人様』と許しを乞いながら、惨めったらしく俺の靴を舐めてみろ。俺の機嫌を上手に取る事が出来たのならば、先程お前が言っていた通りにしてやってもいい。――…出来ないと言うのならば、お前もお前の後にいるリンゲインの者達の首も即刻刎ねてやる」
もう迷う暇もなかった。
―――跪いたスノーホワイトが両手を大地に付けた瞬間、
パン!
乾いた音が辺りに鳴り響く。
(え…?)
顔を上げると、ミカエラの頬にぶつけられた白い手袋が、スローモーションで下に落ちて行くのが見えた。
「この下郎!これ以上彼女を貶めるつもりならば、この僕が相手になってやる!!」
やたらゆっくりと動いて見える時の中で、”私”を庇う様に、”私”の前に一人の少年が立ちはだかる。
(うそ、エミリオ様…)
エミリオ王子がミカエラに投げつけた手袋が、パサリと音を立てて地面に落ちた。
「なんだ、お前は」
「カルヴァリオの狂犬とは物を知らん男の様だな。リゲルブルクの第二王子、エミリオ・バイエ・バシュラール・テニエ・フォン・リゲルブルクだ」
「ほう、お前があのアミールを城から追い出したという、やり手の第二王子か!」
フロリアナが故意に流した、事実とは言い難い情報が教皇国にもそのまま伝わっていたらしい事に、リゲルブルクのメンバーが明らかに困惑する中、ミカエラは喜々とした表情で地面に落ちた手袋を拾う。――拾ってしまった。
―――エミリオ王子が売った決闘 が受理されてしまった!
爵位を持つ貴族以上の身分の者が、衆目の中で顔に手袋をぶつけるのは最高の侮辱となる。
手袋を拾われた場合、どちらかが死ぬまで決闘は終わらない。
「エミリオ様…!」
「これは男の戦いだ、女は口を挟むな」
背中を向けたまま冷たく一蹴され、一瞬言いよどむ。
「いけません!私ならばどんな屈辱だって耐え忍んでみせます!!」
「もうミカエラは手袋を拾った。決闘は受理されたんだ、お前は黙って引っ込んでいろ」
「エミリオ様、話が違うわ!」
「そうだな、すまない。―――だがアキラ、男だったお前には今の僕の気持ちが分かるだろう?」
彼はこちらを怒りに燃える瞳で振り返り、言い切った。
「自分の好いたおん……ゴホン!お前の母上でも姉上でもいい。大事な家族が汚辱に溢れた扱いを強要されている所を、お前は黙って見過ごす事が出来るか? 犬扱いされると知って、おめおめ引き渡す事が出来るか?――…ここは僕に格好をつけさせろ」
「エミリオ…」
(”俺”は…、)
「お前の噂なら僕も聞いている。おのれの渇きを満たさんが為に大地を血で染め上げたと言う、時代遅れの乱世の檻に囚われしカルヴァリオの狂犬だろう?」
余裕の笑みを浮かべ、王子様は髪を掻きあげる。
「お前の行く道はきっと焼け野原だろうな。その鎖が解き放たれてしまった時、大陸全土が戦火の炎で燃え上がるのだろう。―――偉大なる始祖、ディートフリート・リゲルの名に懸けて、お前は僕がここで喰い止める。アミールが出るまでもない!」
「来い、ウンディーネの加護を受けしリゲルの末裔よ!!」
「エミリオ!!」
白刃を煌めかせ、自分よりも強大な王に斬りかかる年若き王子の背中に手を伸ばして叫ぶが、”俺”は後から羽交い絞めにされてしまう。
「駄目だ、スノーホワイト!」
ヒルデベルトだった。
「行っちゃ駄目だ」
「で、でも俺…じゃなくて、私は!この国の王女として…!!」
「悪いけど、俺は君を守るように王子に命じられてここにいる。今ここで君をこいつに渡してしまっては、王子の命に背いた事になる」
「でも!」
「……それに何よりも、俺自身がこいつに君の事を渡したくない」
スノーホワイトの身体から手を放すとヒルデベルトはスラリと抜刀する。
いつも無邪気な色でキラキラ輝くの騎士の目に、今日は光りがなかった。
暗い色を灯すその瞳には、押さえ込まれた殺気と獣性が溢れかえっていて、思わず息を飲む。
「―――…こいつに君の事を渡す位なら、死んだ方がマシだ」
「珍しくワンコ君と意見があったな」
「ルーカスさん!?」
「数で勝てねぇ戦なら、さっさと将 の頭を獲って勝ち逃げすりゃいいだけの話だ」
長い三つ編みを指ではじいて後に流すと、軟派な騎士も抜刀する。
「ここはオニーサン達に任せてお姫様は下がってなさい、俺達騎士って奴は昔からお姫様を守ってなんぼのもんなのよ」
「ルーカスさん、でも!!」
食い下がり彼のマントの裾を掴むと、軟派な騎士はこちらを安心させる様にウインクを一つ投げて来た。
「オニーサンがスノーちゃんに一つ良い事を教えてあげよう。イイ男に格好つけさせてやるのもまた、イイ女の仕事なんだよ。―――…って事で加勢しますよ!エミリオ様!!」
オ……、ウオオオオオオオオオオオ!!!!
「騎士様たちに続け!行くぞー!!」
「ここで剣を抜かなきゃ男じゃねぇな!!」
「姫殿下をカルヴァリオの狂犬に渡してなるものか!!」
リゲルブルクの王子と二人の騎士に触発されたのだろう。
リンゲインの国境部隊だけではない、城から逃げて来た者達、そして撤退準備をしていたリゲルブルクの兵士達までが武器を手に立ち上がったのだ。
(なんで、どうして…!?)
突如混戦が始まってしまった。
撤退する予定だった八千の兵が加勢しても、こちらの戦力は一万五千と数百の民間人。
それが北にカルヴァリオの六万の兵、南にバルジャジーアの五千の兵に挟み撃ちされているのだ。東には海、西には闇の森、逃げ場がない。
(このままじゃ、全滅する…!!)
危機感に目の前が真っ暗になる。
―――しかし、その事実はこの場にいる誰もがしかと理解していたらしい。
カルヴァリオに一歩遅れて動き出したバルジャジーアの兵達に気付いた、リゲルブルクの上官らしき兵がエミリオ王子に向かって声を張り上げる。
「エミリオ様!騎士様!どうか姫殿下を連れてお逃げて下さい!!」
「ここは私達が食い止めます!!どうか!!」
リンゲインの兵士達がそれに続く。
「姫様はリンゲインの太陽です!姫様さえ生きていればリンゲインは何度だって復興出来る!エミリオ様、姫様をどうか頼みます!!」
「土地や作物と同じです!!例え狼藉者達に踏み荒らされる事があっても姫様さえご無事ならば、太陽さえあれば!私達は何度だってやり直す事が出来るのです!!」
「ロードルト=リンゲインの血を絶やしてはなりませぬ!!姫殿下、どうぞお逃げください!!」
意外過ぎる城の者達の声に、涙が溢れ出す。
(私の命にそんな価値なんてあったの…?)
「なんで…?」
「継母に虐げられるあなたを見て見ぬふりをし続けていた私達に、どうか償わせて下さい」
「姫様、今までごめんなさい」
「姫様、どうか生きて」
そう言って決して戦闘要員ではない城の者達が、果物ナイフや落ちて来た木の棒を武器にして、カルヴァリオの軍勢へと立ち向かう後姿を呆然と見送る。
―――今この時になって自分が彼等に愛されていたと言う事実と、リンゲインの跡継ぎである自分の命の重さを知った。
「いいだろう、お前達の姫は僕が確かに預かった!お前達の覚悟、しかと受け止めた!!」
エミリオ王子は自分を押しのけて、バタバタと兵をなぎ倒す台風の目の様な皇王の元へと走り出す彼等の背中を見て一瞬だけ泣きそうな顔になったが、すぐに唇を噛み締めて表情を引き締める。
「ミカエラ、この勝負預けたぞ!!」
「なんだエミリオ!結局逃げるのか!勇ましいのは口だけか!?」
「フン、首を洗ってまっていろ駄犬!次会った時がお前の命日だ!」
今自分の目の前で何が起きている事の全てが現実離れてしていて、一体何が起きているのか解らなかった。
見知った顔の者達が次々に倒れていく。
目の前で咲く赤い花に、散っていく命に、涙がとめどなく溢れる。
「みんな、なんで、……どうして!?逃げて!逃げてよ!私なんかどうなってもいいから、お願いだから逃げ――、」
パン!!
乾いた音と共に、頬にピリリと痛みが走った。
頬を叩かれたのだと知覚する前に、エミリオ王子にグイッと手を引かれ、ミカエラ達の前からあっという間に遠ざかる。
「それ以上口にするのは許さない。あそこにはうちの兵もいるんだ、彼等の必死の覚悟を侮辱するのならば、スノーホワイト、お前が相手でも僕は本気で怒るぞ」
「エミリオ様…」
「今は逃げる事だけ考えろ!彼等の気持ちと命を無駄にするな!お前は今血を吐いても泥をすすっても生きのびなければならない!!」
「でも!!」
後髪引かれる思いで後を振り返ってしまう俺を彼は叱咤する。
「これはある男の言だが――、僕達王族の命は安くはないらしい。とてつもなく高いんだ、その辺の奴等の命とは違う。今お前の命の値段をつけるとしたらこの国の中で一番高いだろう。――…知っていたか?」
「え?」
「お前の背中にはリンゲインの1250万の民の命が懸かってる。あの者達が今、何故お前に命を捧げようとしているか分かるか?この国の王女であるお前にしか出来ない事があるからだ。お前には王族の義務がある」
「王族の、義務…」
王子様は走る足を止めずに続ける。
「王族の義務とは、自国が他国からの侵略に晒された時に民を守る事だ。規律や規範を用いて、民に一定の秩序を与え、弱者を守る事だ。限られた資源と条件で国力を高め、より豊かでより平和で安全な国づくりをする事だ!――だが、お前にはそれが出来なかった!」
ナイフの様に鋭い言葉にザクリと胸を抉られ、またしてもボロボロと涙が溢れ出す。
目の前の王子様の純白のマントが歪んだ。
「私に……出来ると思う?」
「出来ないと思っているのなら、僕もあいつらも、誰もお前なんぞに命を懸ける訳がないだろう!!」
その言葉に涙腺が崩壊した。
混戦の中、涙を拭う暇もなくただ、ただ走る。
こちらを振り返りもせず、向かってくる敵兵の剣を弾きながらエミリオ王子は続ける。
「だからこそ、お前は彼等の為にやり直さなければならない。だからあいつ等も命を懸けるんだ。彼等の命と想いを無駄にしてはいなけない。スノーホワイト・エカラット・レネット・カルマン・レーヴル・ド=ロードルトリンゲイン!!しっかりしろ!!自分の命の価値とその身に背負った重圧を思い出せ!!」
まだヒリヒリ痛む頬を抑えて頷くと、彼は俺達に一歩遅れて着いて来た騎士達の方に目を向けた。
着いて来たのはヒルデベルトとルーカスだけでなく、大剣を風車の様に振るい、首を刈る戦車の様に突き進むミカエラも一緒だった。
「逃がさぬ!!」
ガッ!!
ヒルデベルトがミカエラの大剣を剣の腹で受け止める。
「させないって言ってるだろ!!」
「ほう、面白い!面白い動きをするな小僧!!名を名乗る事を許可しよう!!」
「ヒルデベルト!」
「なるほど!お前があのアミールの騎士、血塗れ屍骸製造機 か!!」
ガッ!ガギ、ガギン!!
目にも止まらぬ速さで打ち合いをはじめる二人に、誰も近づけない。
「っ!?」
大剣を受け止めるヒルデベルトの剣に罅が入る。
どんどん大きくなって行く罅に犬歯をむき出しにしながら歯切りして、彼は自分の横で兵を一人切り伏せたルーカスを振り返った。
「ルーカス、ここは俺が食い止める!俺が獣の姿になったら、君はエミリオ様とスノーホワイトを連れて森へ逃げるんだ!!」
「お前、マジで言ってんの?」
「頼む!俺がこんな事を頼めるのは君しかいない!」
「……ヒルデベルト」
「君ならリゲルブルクまで彼女を無事に届けられるだろう!黒炎の騎士!!」
ヒルデベルトが大剣を押し返した瞬間、彼の持っていた剣の刃がついに粉々に砕ける。
彼は剣圧に押される様に、後に転がる様にバク転を一つしてミカエラから距離を取ると、すぐ様近くの死体に突き刺さっていた剣を抜いて構えを取った。
「面白い!面白いぞ、貴様!!」
そんなヒルデベルトの人間離れした動きに、ミカエラの目が爛々と輝く。
「お前、死ぬ気なのか…?」
恐らくここにヒルデベルトを置いてく事がどういう事になるか分かっているルーカスの動きは鈍い。
追っ手の兵を一人斬りながらぼやくルーカスにヒルデベルトが叫ぶ。
「ルーカス・セレスティン!!早く行け!!」
ルーカスは舌打ちするとまた一人兵を切り捨てて、こちらに駆け寄ってきた。
ルーカスの背中に一つ微笑を浮かべながらヒルデベルトが、こちらに向かって叫ぶ。
「馬には乗るな!森に入ったら一気に駆け抜けろ!」
「はあ?そんなんじゃすぐに追いつかれちまうだろうよ」
「ルーカス、頼む!俺を信じてくれ!!」
「……へいへい、わーったよ」
戻ってきたルーカスは、剣の腹で自分の肩当てを叩きながら俺と視線を合わせずに言う。
「と言う事だ。逃げるぞスノーちゃん」
「ヒルは?……まさか、置いていくの?」
「エミリオ様、俺が道を開きます。遅れずにスノーちゃんと着いてきてください」
「分かった」
質問には答えずに、森へ向かって一目散に走る騎士に俺は事態を把握した。
「ヒル!待てよ!!こんなの絶対嫌だ!!俺の世界に遊びに来るって約束しただろ!!置いてかねぇぞ、俺、絶対に置いてかねぇからな!!」
俺を振り返ったヒルデベルトは笑顔だった。
一点も曇りのない笑顔だった。
「アキラ。また会えたらこのボールで一緒に遊ぼうね」
彼が投げた何かを反射的にキャッチする。
俺の手元にすっぽりと収まったのはあの古ぼけた黄色いボールだった。
「ナイスキャッチ!」
俺がボールキャッチしたのを確認したヒルデベルトが目を細めて笑った、次の瞬間―――、
グオオオオオオオオオ!!!!
ヒルデベルトの着ていた服は弾け飛び、突如戦場に巨大な銀狼が姿を現した。
「化け物だ!化け物だ、かかれ、かかれ!!」
「なんだこいつは人間ではなかったのか!?」
獣形態になったヒルデベルトに辺りは混乱を極める。
敵どころか味方までがヒルデベルトに剣を向けている。
「嫌だ!嫌だ!ヒルを置いてける訳ねぇだろ!!だって、あいつは、ぽてとは!小さい頃からずっと一緒の俺の友達で…!!」
「アキラ落ち着け!逃げるぞ!!」
「チッ、行きますよエミリオ様!!」
そのまま俺は二人に抱えられる様にして、昼でも真っ暗な闇の森の中に入った。
「逃がすな、追え!!」
ミカエラの声と共に、数十体の騎馬隊がすぐに俺達の後を追いかけて来る。
流石のヒルデベルトでもこの人数すべて捌くのは不可能だったらしい。
あっと言う間に追いつかれた俺達は、ジリジリと距離をつめられて行く。
ドン!とスノーホワイトの背中が行き止まりの崖にぶつかる。
(まずい…)
一心不乱に走っていたとは言え、逃げた方向がまずかった。
「くっ、行き止まりか…!」
「数が多すぎる!王都に戻ったら給料上げて下さいね、エミリオ様!!」
「生きて戻れればな!無駄口を叩く暇があったら、一匹でも多く仕留めろ!!」
「へいへい!」
憎まれ口を叩き返すエミリオ王子の剣の動きは大分鈍くなってきている。
彼の体力は既に尽きかけているのは、俺もルーカスも良く分かっていた。
俺達二人を庇う様に崖の前で剣を振るうルーカスの顔にも、焦りの色が滲み出て来たその時だ。
ゴロゴロゴロ……、ガガガガガガッ!!
(え?)
崖の上から降ってきた巨大な石が、騎馬兵達に直撃する。
「よう!あん時きゃ世話になったな、お嬢ちゃん達!」
「大分困ってるみてぇじゃねぇか」
崖の上に立っているその男達の顔には見覚えがあった。
「盗賊さん達!?なんで!!」
いつかスノーホワイトを誘拐して狼藉を働いた盗賊達の加勢に、思わず叫んでしまった。
盗賊達にロープを垂らされ、俺達は崖の上に引き上げられる。
「何故お前達が今、僕達を助けるんだ?改心したとでも言うのか?」
「いいから逃げな、これもボスの命令だ」
「ボス?」
「元々俺たちゃ盗賊って訳じゃねぇんだよ、鏡の女王が購入する贅沢品をのせた馬車を狙ってただけで」
「どういう事だ?」
「いいから逃げな!あんた達が逃げてくれなきゃ俺達も逃げらんねぇんだよ!!」
馬を捨て、崖を登って来ようとする兵士達を槍で突きながら叫ぶ盗賊その1に俺達は顔を見合わせた。
何が何だか判らないが、――…とりあえず助かった!
「ありがとう盗賊さん達!!」
走ってその場を離れる事しばし。一難去ってまた一難と言うべきか――、
グオオオオオオオオオオオオ!!
目の前に出現した魔物の群れに、俺達の足が止まる。
「ちっくしょう!ツイてなさ過ぎて泣けてくるぜ!!」
「昨晩の魔獣か!?しかし何故この時間に魔獣が!!」
「そうか、昨晩血を浴びて興奮が冷めていないんだわ」
―――そして、
「待て!!投降しろ!!」
やはり徒歩と馬では走る速度が違い過ぎた。あっという間に騎馬隊に追いつかれてしまう。
絶体絶命の状況だと思われたが、ルーカスがポン!と手を打った。
「そうか、そういう事か!」
「なんだルーカス!」
「このまま走って突っ切りますよ!!」
「はあ?――…ああ、そういう事か!!」
俺の手を引く王子様は一瞬訝しげな表情を浮かべるが、すぐにルーカスの言葉の意味を理解したらしい。
魔獣達は背が高い。
俺達が彼等の股の間を走り抜けて行くその後方では、追手達が次々倒れていく。
「なるほどな、こうなりゃ馬なしの方が走りやすいわ」
「油断するなルーカス!また新手の魔獣だ!!」
今度の魔獣は怪鳥タイプで戦闘は避けようがない。
あれから一体何時間走っただろう。
何体魔獣を殺しただろう。
体力が尽きてもう歩く事もままならない俺達の目に飛び込んできたのは、スノーホワイトがいつか盗賊に浚われたあの古城だった。――ロードルト=リンゲインがリンゲイン独立共和国を建国した時に建てたと言われている、はじまりの城。
棒の様になっていた足は俺の意思に反して、古城へと向かって歩きだす。
「スノーホワイト?」
「どした、スノーちゃん」
剣先を大地に刺して、柄の上に顎を乗せて呼吸を整えていたルーカスと、膝を付いてぜいぜい言っていたエミリオ王子が顔をあげた。
「分からない。分からないけど、呼ばれてる気がするの…」
―――古城の裏ある大きな湖の底が光り、中央からコポコポと泡を立てている事に気付く者は誰もいなかった。
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