epilogue2・ヴァルプルギスの夜の軌跡
(あれは…?)
闇の森に帰る途中、夜の魔女リリスは懐かしい気配を感じ、森の前にある小さな村に舞い降りた。
宙を走る黒いプラズマから産まれ落ちた少女は、ふわりと広がる水色のエプロンドレスを抑えて、地面に着地する。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい!舐めてる間は動物と話しが出来る魔法の飴 に、異世界が覗けちゃう魔法の便器から、三大神器のバンジャリデアの宝剣、ピデアンの盾まで何でもあるよ!!」
「……あんた、こんな所で何やってるの?」
目深に布を被り顔を怪しい物売りの事を彼女は知っていた。
―——刻 の軸を失いし者、失刻の賢者の一人べリアメルと言う少年である。
詳しい事は知らない。特段興味もないので聞いた事もないし、今後聞くつもりもない。
見た目だけならリリスと同じ10代半ば程度だが、不老不死となった彼が数千年の時を生きている事を彼女は知っている。
失刻の賢者、またの名を盲亀浮木の賢者。
人の世界の史実によると、この名の通り滅多にお目にかかる事の出来ない賢者様だが、リリスはこの賢者に良く遭遇する。
最後に会ったのは確か500年くらい前だったはずだ。
「何って路銀稼ぎだよ」
「五大賢者の一人であるあなたが路銀稼ぎですって?」
「五大賢者でも不老不死でも腹は減るもん」
呆れかえった顏になるリリスに、彼はいけしゃあしゃあと返す。
「ああ、そう。―——…で、ルカだっけ?あんた達に呪いをかけた男は見つかったの?」
「いんや。てか見つかってたら、こんな所で呑気に木彫りの熊なんて掘ってないから」
「まあ、そりゃそうよね。……しかし失刻者のあなたが、こんなガラクタ売って日銭を稼いでいるなんて」
リリスは「バンジャリデアの宝剣」と銘打ってある木刀を手に取って嘆息する。
「ガラクタばっかりじゃないよ、ちゃんと力を込めて作ってる奴もある。そう言うのは人を選んで売ってるんだ」
「みたいね」
リリスは鏡の妖魔が別れの際に亜姫に渡した物と同じ、真鍮の鐘を手に取った。
チリンと鳴らしてみると、空間が捻じれる音に彼女は妖しく目を細めた。
(これは…)
「随分と物騒な物売ってるじゃない?こんな物が人間の手に渡ったらどうなるか」
「言っただろ?人を選んで売ってるからいいんだよ。この『永久 の愛の鐘 』は流石に人間には売った事ないし」
「あっそ。……そう言えば私、最近面白い人間達に会ったのよ」
「人間嫌いのあんたがこんな所にいるんだから、そんな事だろうね」
リリスから鐘を取り返すと、失刻の賢者と呼ばれた少年はふと何か思い出した様に顔を上げる。
「そうだ、俺もこないだここで面白い妖魔に会ったよ。そいつが妙に人間くさい男でさ、真剣に恋なんかしちゃってて。あんまりにも面白かったから、これと同じ奴を売ってやったんだ」
「妖魔の男が恋、ね。……確かに面白いわ。スノーホワイトが帰って来るまでの時間潰しに、その妖魔をからかいにでも行こうかしら」
「なに。お前、暇なの?」
「あんたも知ってるでしょう?不老不死なんて毎日暇を持て余してる様なもんよ」
「そりゃそうだ」
****
あの後、亜姫は家まで送っていくと言う幼馴染の申し出を断って、駅周辺を一人でプラプラする事にした。
夕食までにはまだ時間はあるし、何よりも今は一人でいたい気分だった。
ふらりと西口のジャンク堂に入るが、特に目新しい本はなく、何も買わずに店を出る。
駅前に戻ると西口では今年もイルミネーションをやるらしく、人で賑わっていた。
「寒いな…」
どこか浮かれた雰囲気の街の中で、幸せそうな恋人達とすれ違い、また胸が痛くなった。
(イルミネーション、私も鏡と一緒に見たかったな…)
彼は異世界のイルミネーションやクリスマスに一体どんな反応を示しただろうか。
向こうにも年の瀬にクリスマスと呼ばれるクリスマスに似た行事はあったが、こちらのクリスマスとは大分意味合いが違う。
マフラーと手袋をしてくれば良かったと少し後悔しながら地下道を通過し、無心に歩いていると、気が付いたら紙敷のさくら通りまで来ていた。
(もうそろそろクリスマスか…)
風が肌に刺す様に冷たくて、泣けてくる。
―――その時、
「ねね、アリカ!あれ、アキちゃんじゃない?」
「本当だ、アキちゃんだ!久しぶりー!」
偶然、過去の”親友”の綾瀬法子と有邨アリカに出くわしてしまった。
こんな時に面倒くさい連中に会ったと亜姫の顏が暗くなる。
高校で偶然同じクラスになった二人は、「シゲ君の元カノ」と言う共通点から仲良くなったと風の噂で聞いた事がある。
何だかんだで中身が良く似ている二人なので、亜姫などよりはよっぽど気が合うだろう。
高校になって違う学校になったので毎日会う事もなくなったが、地元が同じだとやはりこうして顔を合わせてしまう事がある。
こういう時、毎朝楽をする為に徒歩圏内の地元の大学を選んだ事を少しだけ後悔する。
「ってかさ、さっき駅前で見たんだけどシゲ君と一緒だったよね?」
「えー、まさか抜け駆け? アキちゃん、シゲと寄り戻したの?」
この手の煩わしさがない分、異世界は楽だったなと思う。
「だから。……シゲ君とはそういう関係じゃないってもう何度言ったら分かるかな」
「またまたー、私達にはバレバレなんだから」
「ねー?」
一人でも面倒くさい女だったが、二人になると輪をかけて厄介だ。
「てかさ、アキちゃん、駅前の大学に行ったんだっけ?大学で彼氏できた?」
「ごめん、私急いでるから」
そのまま帰ろうと急ぐ亜姫の前に二人が回り込む。
「大学ってさぁ、新歓コンパとかゼミとか、沢山出会いがあるんでしょ?よっぽどのブスでも彼氏が出来て、そこで処女捨てられるって聞いたけど」
有邨は意地の悪い目で、頭から足元まで亜姫を舐めまわす様にジロジロと見つめた。
高校のジャージの上にコートを羽織っているだけと言う、今の自分の酷い格好を思い出して、亜姫は軽く後悔した。
有邨の方と言えばバッチリメイクを施して、目にはバシバシ睫毛エクステを付けて、爪にはお金のかかっていそうなキラキラのストーンに3Ⅾアートの飾りを付けたスカルプネイルを付けている。バッグは流行やブランドに疎い亜姫でも知っている高級ブランドの物だ。髪も綺麗に伸ばして、緩く今っぽく巻いている。
綺麗に染めたピンクブラウンの髪がさらりと白いミディアム丈のファーコートに流れ落ちる。
この女は相変わらず自分の魅せ方を良く解っている。
その純白のフワフワコートが、中学時代この桜並木の精霊と名高かった彼女を、今は雪の精霊の様に魅せている。
今もまた、彼女のワンピース調のコートから伸びる細い脚に、すれ違うエロリーマンがデレデレと鼻の下を伸ばしながら通り過ぎて行くのが亜姫の視界の端に映った。
綾瀬の方は有邨よりに比べると華がなく少し地味ではあったが、相も変わらず男受けの良さそうな女子アナ系ファッションで小綺麗にまとめている。
黒髪清楚系で、自分に少し自信のない男を一網打尽にするスタイルは相変わらずらしい。
ネイルも男受けが抜群のフレンチネイルだ。この爪にすると世の男性達は、地爪なのかジェルなのかスカルプなのか何故か見分けが付かなくなるらしい。
コテコテネイルと圧化粧の女は嫌いと言う男に限って、フレンチネイルや女子アナ風の厚化粧に騙されるのが、女の亜姫は不思議でならない。
女の自信とは、その時装備している戦闘服に左右される事が多い。
芋ジャーすっぴんの亜姫は、ゲームで言うならひのきの棒と布の服を装備したまま、高レベルのダンジョンに迷い込んで敵と遭遇してしまった様な心境だった。
同級生に会うならもう少しまともな格好をしてくれば良かったと思うが、もう全てが後の祭りだ。
「ププ、……その様子じゃまだみたいだね、相変わらず処女って感じ!」
「きゃはははは!アリカきっつー!」
「だってこいつ、相変わらず地味でダサいじゃーん?あんた男だったらコレと付き合いたい?これと犯れる?」
「無理無理、絶対無理!お金貰っても無理!!」
うるさい黙れ死ね、と心の中で呪い事を唱えながら亜姫は足早に歩くが、二人はしつこく付いて来る。
「ねえねえ、アキちゃん。見て? このバックさぁ、120万するんだ」
「す、凄いね…」
やはり本物のエルメルだったのかと、亜姫の顏が引き攣った。
思わず足を止めて驚き固まる亜姫を見て、有邨は満足そうに微笑んだ。
「彼氏のレン君が買ってくれたんだぁ。本当は私ィ、彼の事あんまり好きじゃないからそろそろ別れたいんだけどぉ、そろそろクリスマスじゃん?プレゼント貰ってからにしようかなって」
「きゃはははは!アリカってば悪女ぉ!」
「あんただって似たようなもんでしょ?うちら今、今年のクリスマスプレゼントの合計額で勝負中じゃん」
「そうだけどぉ」
「アキちゃんにはぁ、アキちゃんの為にエルメルのバッグとかカルティユの指輪買ってくれる男もいないんだろうねぇ。可哀想」
「だよねぇ、可哀想」
さっきから有邨が亜姫にチラチラと見せつけているのはどうやらネイルではなく、カルティユの指輪だったらしい。
「ねえねえアキちゃん、今年のクリスマスも一人なんでしょ? 可哀想だし、私優しいし?私達のお下がりで良ければ誰か貸してあげようか?」
「……いらない」
「えー、無理しなくていいんだよ?アキちゃんはどうせ今年のクリスマスも、一緒に過ごしてくれるの家族しかいないんでしょ?」
流石の亜姫もそろそろ我慢の限界だった。
「うるさいな!私にだって彼氏の一人くらいいるんだから!!」
亜姫が振り返り様に啖呵を切ると、二人は顔を見合わせた。
言ってからしまったと亜姫は慌てて口を覆う。
今までの亜姫なら黙ってやり過ごしたのだろうが、リデアィンネルとして生きた32年間のせいだろう。 こちらに帰ってきてから良くも悪くも少し気が強くなってしまった感がある。
「どんな人?写メ見せてよ?大学で出会ったの?イケメン?エリート?お金持ち?」
「しゃ、写メはない…」
「気になる、超気になる!ここに呼んで!今すぐ電話してここに呼んで!!」
「そ、それは無理……仕事してるし、忙しいだろうから」
「え?って事は社会人?何歳?何してる人?どこ勤務?芸能人で言うと誰に似てる?」
「え、えと……何歳だったかな。しょ、職業は……執事…?」
亜姫のしどろもどろとした解答に、二人の顏が嘲笑に変わった。
「執事?何それぇ。やっだー、またアニメか何かのキャラクターなんでしょ?」
「見栄はっちゃってさぁ。それ、脳内彼氏か何かで本当は彼氏なんていないんでしょ?まだ処女なんでしょ?」
「い、いるよ!!本当だって!!」
「いたとしても友達に紹介もできない様なブ男なんじゃない? ほら、何だっけ、有明でオタクの集まりがあるじゃん?それで出会った、執事服着たキモオタとか」
「う、うう、ち、違、」
脳内彼氏と言われて違うと言いきれないのが悲しい。
なんたってその恋人は異世界の住人で、こちらの世界にいないのだ。
もしかしたらあちらの世界であった事が夢か何かだったのではないかと思う事だってある。弟達がいなければ、多分リアリストの亜姫は向こうであった事を全部夢だと思っていた事だろう。
「じゃあ呼んでみろよ」
「よ、呼べない…」
「本当はいないんでしょ?いないから呼べないし、写メもないんでしょ?」
―――その時、
チリン、
コートのポケットの中に入れて持ってきた鐘が鳴る。
その鐘の音はいつもと違う音だった。
何が違うのか人間の亜姫には解らないが、彼女はハッと顔を上げて辺りを見回す。
「アキ様、お待たせしました」
突如、雑踏の中から現れたその長身の男に、二人は目を見張る。
オフブラックのロングコートの下に着こんでいる燕尾服が少々浮いている。
「鏡…。嘘、鏡なの…?」
「はい、少し時間がかかってしまい申し訳ありませんでした」
髪は何故か、白銀 から黒髪になっており、瞳の色はパーシャンローズから落ち着いた色のローズブラウンになっているが、―——…それは紛れもなく鏡だった。
亜姫の目からは大粒の涙が溢れだす。
「遅いよ、本当に遅い…!!私、ずっと待ってたのに!!」
「本当に申し訳ありませんでした」
そのまま鏡の胸に飛び込もうとする亜姫の肩を、2本の腕が些か乱暴に掴んで、彼から引き離す。
「ちょ、なにこのイケメン!」
「ちょっとアキちゃん、このイケメンノンちゃんに紹介して!!」
「は? いや、それは…」
コソコソ耳打ちされて、戸惑う亜姫に鏡が怪訝そうな口振りで言う。
「アキ様のご友人ですか?」
「友人って言うか、小中学校からの腐れ縁って言うか、……えと」
「やっだああああ!!アキちゃんったらひどい!ひどい!私達親友でしょ!?ね、お兄さん!この子本当に毒舌ですよね!!」
「そうそう、私達アキちゃんとは昔からの親友で!!お兄さん外国人ですか?超スタイル良いですよね!超格好良いですよね!モデルさんか何かですか!?」
「それはどうも。初めまして、可愛らしいお嬢様達」
鏡がキラキラとエフェクトを飛ばしながら艶やかに微笑むと、有邨達は黄色い悲鳴を上げる。
向こうの世界では違和感のなかった台詞だが、現代日本では違和感ありまくりだ。糖分過多の男の台詞に、二人の目がハートになっている。
頭痛がしてきた亜姫は、溜息を付きながら額を抑えた。
鏡との感動の再会が、何故こうなってしまったのだろう。
「や、やっぱり外人さんっていいね、レディーファースト文化最高!もうレン君とかどうでもいいや、今年のクリスマスはこいつにする!こいつに決定した!絶対落としてやる…!!」
「やだやだ、ノンちゃんもあれ欲しい!あの人とエッチしたい!……ねね、アキちゃん、あの人ちんちん大きい?エッチも上手い?」
「こら法子。何言ってんだよ、お前馬鹿じゃね?あんなイケメンがこんなモサ処女とセックスする訳ないじゃん」
肉食獣らしい喧嘩を始める小声で始める二人に、亜姫は眩暈がしてきた。
「あの、……お兄さんはアキちゃんとどういった関係なんですか?大学の交換留学生?それとも英語の講師さんとか?」
「私ですか?私ならアキ様の忠実なる僕 です」
にこやかな笑顔で告げる鏡に、その場の空気がピシリと音を立てて凍り付く。
「え、ええええええええええ!?」
「嘘!嘘おおおおおおおおお!?」
二人の大絶叫がさくら通りに響き渡った。
「嘘でしょ!こんな地味女のどこがいいんですか!?」
「どこが、……全てですが」
食って掛かる有邨に、鏡はさも不思議そうな顔をして首を傾げる。
「全て!?嘘!!お兄さん絶対騙されてる!!こいつオタクなんですよ、気持ち悪いアニメの本とか読んでるの知ってます!?」
「そうそう、BLとか好きなの!!マジでやばいんですって!!昔からクラスでも陰キャラって言うか、地味なグループで、」
「だから絶対お兄さんとは絶対釣り合いませんって!!」
(や、やめて…)
鏡は亜姫のオタクで腐っている酷い本性を既に知っている。
しかし、こう明け透けに言われてしまっては流石の彼女も恥ずかしかった。
亜姫の頬が赤くなって行く。
(この場から消えてなくなりたい……)
涙目で縮こまって行く主人の姿を怪訝そうに見やった後、鏡は妙にキラキラとした笑顔で二人を振り向いた。
「勿論存じ上げております。私はアキ様のそんな部分も全てひっくるめて愛おしく思っているのですが、……何か問題があるのでしょうか?」
「ええええええええ!!嘘、嘘!そんなの絶対嘘よ!!」
「この人、多分あれだ!!外国人だから少し美的感覚とかがおかしいんだ!!」
外国人どころか異世界人である。
「そ、そうね!もう少しこの国の文化に馴染めば、三浦さんがどれだけアレな人種かわかると思うんです、だからやめておいた方が良いと思いますよ!!」
「日本の女の子の事なら、お兄さんにノンちゃんが教えてあげますよぅ!!」
二人の猛撃に鏡はやるせなさそうな表情で溜息を付いた。
そのわざとらしい、芝居がかった仕草と表情に亜姫の目が半眼になる。
「どうか、愚かな男にもっと夢を見せてはくれませんか?」
「は、はい?」
「ふえ?」
「あなた方の様に美しく可憐なお嬢様達が、そうやって人を口汚く罵る場面を見てしまうと、……私の夢が壊れてまう。それに、ね?……あなた達は本当はこんな事を言う様な方ではないはずだ」
キラキラと一段とエフェクトを振りまきながら彼女達に顔を近づけると、有邨さん達は赤面しながら固まった。
「そうでしょう、可愛らしいお嬢様達?」
「は、はい」
「ふええ…」
そのままポーっとしながら帰って行く二人の背中を見送った後、鏡は「さてと」と言って、背後で膨れっ面になっている主人を振り返った。
「アキ様、」
「……今の何?」
「はい?」
「馬鹿みたい。何あれ」
(ああ、私また可愛くない事言ってる)
言ってから亜姫は激しい自己嫌悪に陥った。
彼が穏便に彼女達を追い払ってくれた事は分かっているのに。
「長く生きていれば、あの手の女達のあしらい方もおのずと分かって来るものです。自分に自信のある女性は、変にプライドを傷つけるよりも、自尊心を擽ってやった方がコントロールしやすい」
「……可愛らしいお嬢様達がいいんなら、向こうに行けば?」
「―——…もしかして、嫉妬して下さったんですか?」
「馬鹿じゃないの」
「何を言ってるんですか、私の世界で一番可愛いと思っているのはアキ様です」
「……でも、今の聞いてたでしょ?」
「はい?」
「私、オタクで気持ち悪いアニメの本とか読んでて、BLとか好きでマジでやばいらいいんだけど?昔からクラスでも陰キャラって言うか?」
「はあ?」
言っていて泣けて来た。
鏡は異世界の人間だから良く分かっていないだけで、実際にこっちで産まれ育った人間だったら有邨さん達の方が絶対に良いはずだ。
「……本当に私なんかで良いの?」
「今更何を言っているんですか。私は今まで『エミリオたん!エミリオたん!エミリオたん!エミリオぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああ!!!! クンカクンカクンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!』『ああああん!!早くエルにゃんが木の淫魔ドライアドのお姉様達にショタちん●イジイジムキムキにゅるにゅるされてイジメられるシーンが見たいよぉ!!ああ、ショタちん●じゃない!!合法ショタちん●の間違いでした!!まだか!!エロシーンはまだなのか!!スキップできないのかこの鏡は、クソ、クソ!!』などとお叫びになっている亜姫様を散々見てきましたが」
「……で、ですよねー」
確かに今更の事だった。
「私はアキ様がいいんです、アキ様じゃなきゃ駄目なんです」
「鏡…」
「とりあえず、デートしませんか?」
「で、デート?」
「良い店を予約しているんです」
鏡のその言葉と共に、彼の背後に長いリムジンが泊まり、車のドアが上品な白鬚の老執事によって開かれる。
「え、な、なにこれ。これ、あんたの車なの?」
「はい。アキ様に不自由させない様に、アキ様にこの世界で最高の生活を提供する為に、こちらに来てから色々勉強しました」
「な、なんでそんなお金あるのあんた…?」
「株で一財産築きました」
「か、株…」
ブラックカードを出してにっこり笑う執事に亜姫は、これは夢かなと思いながら自分の頬を引っ張ってみる。
しかし何度頬を抓っても目の前の男も、彼の背後のリムジンも消える事はない。
「私の全てはアキ様のものです。何か願いはありますか?何か入り用な物はございませんか? 鏡の能力も、すべてあなたの為だけに使いましょう」
そのままアスファルトに跪き、手の甲に口付けるイケメン執事に、周りの視線が痛いくらい集まっているのを感じて亜姫は全身汗だくになった。
明らかに芋ジャーの自分は釣り合っていない気がするのだが、有邨達のあの様子にスカッとしたのは事実だった。
恐らく自分が買って欲しいと言えば、この男は何でも買ってくれるだろう。
それこそ有邨が持っていた120万のバッグよりも高価な物でも。
(―――でも、そんな物よりも、私が欲しいのは…)
「……じゃあ、」
亜姫の喉が、込み上げてくる涙を飲み込む様にごくりと動く。
「今年の冬コミで城執事コスして、私のサークルの売り子してくれない?」
「は?」
「多分あんたが売り子してくれたら、私の本、凄い売れると思うんだ」
「良く分かりませんが、亜姫様のご命令とあらば喜んで」
立ち上がる執事に、亜姫は家でおでんを煮込みながら待っているであろう母親の顔を思い出す。
「あ、あとね、豪華なディナーもいいけれど、まずは私のお母さんと会って欲しいな。うちでお母さんが夕飯作って待ってるんだ。だから、うちにご飯食べに来ない?」
「ええ、喜んで」
ふわりマフラーを首に巻かれて、さっきまでずっと泣きそうだった亜姫の顔が、みるみる笑み崩れる。
―――もう寒くない。
今年は楽しいクリスマスになりそうだ。
*****
亜姫と別れた後、茂は彼女の弟の晃に会った。
「よ、アキラ。どうした?」
「そこらでうちの亜姫見なかったか?飯の時間になっても帰って来ないから探しに来たんだ」
「……相変わらずシスコンだよな、お前」
「シスコンじゃねぇよ。ただ、」
「ただ?」
「家族で過ごせる時間を大事にしたいんだ。……いつ別れが来るか分からないから」
「そっか」
向こうの世界は、こちらの世界よりも人の命の比重が軽かった様に思う。
少し物騒な悪い国に入って、裏路地に入れば死体なんてそこら中にゴロゴロ転がっている。
ルーカスとして生きた茂も、戦争であっけなく人が死ぬ所を沢山見て来た。
実際戦争で人が死ぬ所を見たのは茂だけではない、晃もだ。
向こうで色々あった事もあり、幼馴染は命の大切さを日々噛みしめている様だった。
「俺も一緒に探してやるよ。実はさっきまで喫茶店 で一緒に茶しばいてたんだ。多分、まだその辺にいると思う」
茂の答えに何故か晃は半眼になる。
「……シゲ?」
「あんだよ?」
「それってデートじゃないよな?」
「はあ?」
「お前さ、……やっぱうちの姉ちゃんの事、狙ってるんじゃないか?」
「狙ってねぇよ!!」
「いや、狙ってるだろ。こっちに帰ってきてからあいつ、何だか綺麗になったし」
「や、それは認めるけど、」
長かった前髪をばっさり切った亜姫は、見違える程綺麗になった。
たまに茂も見惚れる事がある位だ。
だからと言って付き合いたいと思った事はない。そんな事になったら、シスコンのこの幼馴染との関係がギスギスしてしまいそうで、それが何よりも怖い。
―――今の茂にとって、晃との友情が一番大事なのだ。
「どうした、アキラ」
「なんか、呼ばれてる気がする…」
その時、彼は晃の様子がおかしい事に気付いた。
晃の視線は道路の向こう側にある、店のショーウィンドーのガラスに釘付けだった。
通行人は誰も気付いた素振りもないが、ショーウィンドーのガラスがぼんやりと光っている。
「アキラ!?」
そのまま横断歩道もない道路に飛び込んで、車の波の中、走り出す幼馴染に茂は叫ぶ。
「えっえええええ!!?ちょ、ええ、どうしよう、」
光は晃が近付く程に輝きを増していく。
車の波が引いてから、彼は慌てて追いかける。
しかし、その前にショーウィンドーのガラスの前にたどり着いた晃が、―――次の瞬間、消えた。
「アキラ!?」
ショーウィンドーのガラスの向こうに消えてしまった幼馴染の姿に彼は愕然とする。
ガラスの向こうには見覚えのある金髪のスカした王子と、彼が焦がれる様な恋をしたお姫様が映っている。
(こ、これってまさか!?)
「お、おいアキラ!俺も!俺も行くってば!!」
ガラスを叩いてみるが、ガラスの中には入れない。
「く、クソ!なんかないのか!!」
その店に店内に飛び込んだ彼は、奥にある鏡が光るのを見つけた。
「あれだ!!」
*****
―――リゲルブルク公国、城郭都市ドゥ・ネストヴィアーナの中心部にあるルジェルジェノサメール城。王の寝所にて。
大きなベッドに腰かけて項垂れるのは、王となったアミールだ。
半裸のままやるせなさそうに溜息を付くアミール陛下に、宰相のイルミナートが言う。
「また駄目だったのですか?」
「ああ…」
「随分とデリケートなお方だ」
「うるさいな。私はお前とは違うんだ、ほっといてくれ」
その険のある言いぐさにイルミナートは不快そうに眉間に皺を寄せるが、流石の彼も今のアミール陛下に何か言うつもりはないらしい。
(勃たなかった…)
もう何度も何人もの婚約者と事に及ぼうとしたが、いざとなると生理的な嫌悪感が出て来て駄目だった。
しかしディートフリート・リゲルの血だけは何が何でも残さねばならない。
婚約者達で勃たないと解ると、イルミナートは百戦錬磨の娼婦を雇った。そして彼の婚約者達に男を悦ばせる手腕を学ばせたがそれでも駄目だった。
そした今日、イルミナートはどこかスノーホワイトの面影のある黒髪の少女を連れて来た。
アミールは彼女を一目見た瞬間いけると思ったのだが、やはり駄目だった。
「情けないなぁ、この年で使い物にならなくなるなんて。これはもう薬に頼るしかないのかなぁ」
「最終手段です。女がスノーホワイトに見える様に魔法薬でも調合なさいますか?」
「……それは良い、愛しい彼女を抱く夢を見ながら消える事が出来るなんて、それはきっととても幸せな最後だろう」
「……アミール」
彼は自嘲気味に笑いながら、水差しの水を飲み干した。
イルミナートは何も言わずに部屋から去った。
「今の私の情けない姿を見たら、……あの子は何て言うのかな」
(私の一体どこが完璧なのか……)
彼女の幸せを願って帰したと言うのに、自分は本当に諦めの悪い男だ。
あれから、何度「格好なんてつけて逃がさなければ良かった」と思ったか判らない。
今となっては「あなたが消えたら、自分は死んでしまうんだ」と脅迫でもして、形振り構わず繋ぎとめておけば良かったと思う事すらあるのだ。
―――しかし、あの時。
鏡の中の母親の姿を見て、涙を流すあの子を見たあの時、帰してやるのが一番良いと思った。
自分の生まれた世界で生きて死ぬのが一番良いだろうと思った。
「彼女に、会いたい……」
心の声がそのまま口から洩れる。
(潰されてしまいそうだ……背負った物の重圧に)
大事な人を失っただけで、ここまで国の事がどうでも良くなってしまうだなんて、自分で自分が信じられなかった。
しかし、今なら父の気持ちも解るのだ。
一体いつからだろう。自分の中で自国の5000万の民の命よりも、たった一人の少女の命の比重が大きくなってしまったのは。
もう、こんな国どうでも良い。どうなっても良い。
守る価値も見出せない。
そんな事よりも彼女に会いたい。
彼女以外、何もかもがどうでもいい。
『スノーホワイトの女目線で見ても、三浦晃の男目線で見ても、あんたはいつだって完璧な王子様だった。』
ふと脳裏に蘇った彼女の最後の言葉に、涙がぐっとこみ上げて来た。
(でも、頑張らなくちゃね)
自分は全く完璧ではない。でも、それでも彼女が自分の事を「完璧な王子様」と思ってくれているのなら。―——…彼女が見ていなくても、息絶えるその時まで自分は「完璧な王子様」を演じて見せよう。
「ん……?」
―――その時、寝室の全身鏡が光る。
寝台から立ち上がり、アミール陛下は鏡に手をあてる。
鏡の中には驚く事に向こうの世界が映っている。
「これは……アキラとシモムラ…?」
****
「よし!」
額の汗を拭うと、エミリオ王子は破顔してペインティングナイフを置いた。
エミリオ王子はスノーホワイトの肖像画を描いていた。
(こんなの初めてだ…)
モデルが目の前にいなくても、彼は彼女の全てを思い出す事が出来た。
雪の様に白い肌の滑らかな質感から、艶やかな髪の毛が風に流れる様子。彼女が目を伏せた時に出来る睫毛の影の濃さ、スカートの皺一本一本まで、彼は鮮明に思い出す事が出来た。
最初は「次期国王になる御準備を…」とヴィスカルディーに迫られたが、部屋に籠り、寝食も忘れ、ただひたすらキャンパスに向かっているエミリオ王子に彼はもう何も言わなくなった。
最後は「勝手になさい」と向こうが折れた。
最近は城の誰もが、エミリオ王子が絵を描く事に没頭させてくれている。
(次は、河原で一緒に絵を描いた時の彼女の横顔を描こう)
―――彼女の姿を忘れる前に、彼女の記憶が薄れる前に、頭の中にある彼女の姿の全てを吐き出して描き留めたい。
恐らく自分は息絶えるその瞬間 まで、彼女の事を、彼女の事だけをキャンパスに描き続けるだろう。
しかし何枚描いても、どれだけ本物の忠実に描いても、本物のスノーホワイトよりも美しい物になるとは思えないのが不思議だ。
――—その時、
バン!
「護衛もつけずに無用心だな」
部屋に飛び込んで来たその白豚の様な醜男と、もやしの様なひょろ長いオカッパ頭の男は、義理の弟のロルフとロランだった。
アミールが近々死ぬと言う極秘情報を手に入れたらしい彼等は、今度はエミリオ王子の所に暗殺者を連れて来る様になった。
「また僕を殺しに来たのか、お前も懲りないな」
「今はお前が次期国王だからな!お前さえ消せばこのぼくが次の王だ!!!」
「ルーカ…」
言いかけて、エミリオ王子はぐっと喉を詰まらせる。
ルーカスはもういない。
「まあ、いい。相手になってやろう」
「今回はどうかな!高額な金を払って、裏社会で有名な暗殺組織バードュザッサを雇い入れたんだ!!」
「流石はロルフ兄さん!!素敵ですぅっ!」
「お前等!やれ!!」
「ふん、やれるものならやってみるが良い」
―――エミリオ王子は愛剣を持って立ち上がった。
今回ロルフが雇ったのは本当に腕利きの暗殺者らしい。
「はあ、はあ、」
何人か倒せはしたが、流石にプロの殺し屋は強かった。
そしてここ数日、ろくに食べていない事もあって、椅子から立ち上がった時から貧血が酷かった。
気を抜いたら最後、気を失ってしまいそうだ。
「くっ…」
剣を弾かれ、そのまま床に倒れた彼に白刃の刃が迫る。
―――その時、
キィン!
刃を受ける金属音にエミリオ王子が恐る恐る目を開けると、そこには見知った男の広い背中があった。
「チーッス!久しぶりですねぇ、エミリオ様」
「おま、ルーカス!死んだんじゃなかったのか!?」
長い三つ編みを弾きながら、ウインクするその軟派な騎士は、ルーカス・セレスティンだった。
「勝手に殺して貰っちゃ困りますよ」
「だ、だって、お前…」
「本当にエミリオ様は、俺がついてないとどうしようもないッスねぇ」
「ルーカス……!」
そのままあっと言う間に暗殺者を片付けたルーカスは、逃げようとするロルフとロランの首根っこを引っ掴む。
「さてと、エミリオ様、これどうします?」
「いつもの事だ、適当に縛って池にでも放り込んでおけ」
「畏まりました」
「そんな馬鹿なぁ」
「ママぁ、助けてぇ」
主の命令通りに泣き崩れる二人を縄で縛った後、ルーカスはアトリエに隣接する小庭の池に二人の体を放り投げた。
「覚えてろよエミリオ!!」
「うわあああん!ママぁ!!」
派手な水飛沫を上げる池から背を向けると、ルーカスはエミリオ王子を振り返る。
「さて、俺達もボヤボヤしてられませんよ、あの王子様に良い所を取られる前に行きましょうか」
「え?」
「アキラもこっちに来てますよ」
「な、なんだって!?」
*****
「うん。こういう時はね、受けるんじゃなくて流した方が良いんだ。力の差がある場合、正面から受けるのはあまり得策じゃない」
先の大戦で、英雄称号を受けて禁門府のトップとなったヒルデベルトは、城の稽古場で部下達に剣術の指導をしていた。
その時、ふいに彼の動きが止まる。
ヒルデベルトはくん、と鼻を鳴らすと背後にある城―—…ルジェルジェノサメール城の最上階を振り返る。
「どうしました、ヒルデベルト様?」
(この匂いは……まさか…?)
彼女だ。―——…自分が間違えるはずがない、彼女しかいない。
「スノーホワイト!!!!」
ヒルデベルトは剣を投げ捨てると、稽古場から一目散に走り出した。
*****
「この書類にサインをお願いします」
「ああ」
文官時代とは見違える程豪華な執務室で、豪華な衣装に身を包みながら書類の上に羽ペンを走らせるのは、大臣となったエルヴァミトーレだ。
(アキラ、僕、頑張って出世したよ。……君に相応しい男になれたかな?)
先の戦いの余波により”不幸”に遭った大臣のヴーヴェの後釜として、しばらくイルミナートの補佐をして経験を積んだ後、エルヴァミトーレは大臣の椅子に座る事になった。
不思議な事に、あの戦いで不幸な事になってしまった城の重鎮は多く、年若くまだ経験も少ないエルヴァミトーレが繰り上がりにその地位に収まる事になったのだ。
今の彼のこのポジションは、あのお家騒動で現国王となったアミール陛下に忠義を示し、彼一派として多大なる貢献をした事に対する功労でもあった。そしてアミール国王が亡き後、王としてやって行くには少々頼りない部分のある、エミリオ王子を守る為の鉄壁の構えとしての配置でもある。
勿論それだけではない。
まだまだ父には敵わない部分が多いが、それでもエルヴァミトーレは優秀だった。
しかし周りからしてみれば、エルヴァミトーレの出世はイルミナート以上の光速出世であり、それを良く思わない人間も多かった。
王子兄弟へゴマスリが成功しただの、ヴィルカルディーの家の力を使ったと言われてしまえばそれまでだ。
されど成長したエルヴァミトーレは、もうそんな連中の言に振り回される事はない。
今は自分の力を示して、成果を出す時だと思っている。
(アキラ、僕、いつか絶対あいつを超えてみせるから。だから遠くで見守っていて)
また彼女の事を思い出してしまったエルヴァミトーレのペンの動きが止まる。
「次はこちらになります…」
そんな彼に書類を渡すのは、リンゲイン独立共和国からウラジミール国王の遣いとしてリゲルブルクへやって来たメルヒだ。
本来なら国王陛下であるアミール陛下にお目通しを頼まなければならない書類なのだが、今の陛下には陛下にしか出来ない重大な使命がある。
王からの信頼の厚いエルヴァミトーレ達は彼の仕事を代行している最中だった。
「あ、……どうしよう、こっちは僕だけでは判断が難しいな。あいつに話を聞いた方が良い案件だ」
「宰相閣下の部屋へ行くのなら、私もお供いたしましょう。最近、リゲルブルクに裏社会で悪名名高い暗殺組織の者達を手引きした人間がいると言う噂があります」
「メルヒ殿が言うのなら信憑性は高いな。ありがとう、供を頼むよ」
「ええ」
書類を持って廊下に出たエルヴァミトーレとメルヒの前を、白煙を上げながら物凄いスピードで走る一人の騎士が横切った。
「スノーホワイトの匂いがする!!スノーホワイトの匂いが、スノーホワイトの匂いで、スノーホワイトの匂いだから!!―——…アキラだ!!アキラが帰ってきてる!!!!」
「えっ?」
その騎士の言葉に、エルヴァミトーレの手からはらりと書類が落ちる。
彼が巻き起こした埃に一つくしゃみをした後、エルヴァミトーレは後の大男と顔を見合わせた。
「スノーホワイトが…」
「帰ってきてる…?」
「え、嘘!ヒル、まって!?」
「ごめん、待てない!!」
二人は走りながら甲冑を脱ぎ捨てて獣化すると、本気モードで城の廊下を走り出すヒルデベルトの背中を追って走り出す。
****
いつしか鏡が放つ光は目も眩む程になり、鏡の向こう世界を垣間見る事はもうアミール陛下には出来なかった。
「アキラ!!」
どうやら自分は鏡の中に入り、向こうの世界に行く事は出来ないらしい。右腕一本、肩までしかその鏡に入る事しか出来ない。
光りの中、向こうの”彼”に届く様に腕を伸ばし続ける。
「!?」
その時、柔らかい何かを掴んだ感触があった。
アミール王子はそれを掴んだまま、鏡の中から腕を引くと、―——…彼が掴んだのは少女の白く、細い腕だった。
まさかと思いながら、そのまま力任せに腕を引く。
眩い光に包まれながら現れたのは、雪のように白い肌、林檎の様に真っ赤な唇、黒檀の窓枠の木のように美しい黒い髪の、世にも美しい少女だった。あれから彼が何度も夢に見た、愛おしい姫君、――スノーホワイト・エカラット・レネット・カルマン・レーヴル・ド=ロードルトリンゲイン。
「スノー、ホワイト…?」
「アミール王子…」
二人はしばし呆然と見つめ合った。
「なんで…?」
「分からない。鏡が光って、あなたの姿が見えたんだ。それで腕を入れたら――、」
大きく見開いた少女の瞳に涙が燦然と浮かんで行く。
「アミー様!!私、私、ずっとお会いしたかった……!!」
腕の中に飛び込んで来た愛しい姫君を、王子様は硬く抱きしめる。
「スノーホワイト、私もだ。私も、ずっとあなたに会いたかった。格好なんてつけて帰さなければ良かったと、もう何度後悔したか判らない。やはりあなたがいなくちゃ駄目なんだ、私はあなたがいなくては生きていけない」
「アミー様…、」
明日から世界が消えるような悲痛なその声に、スノーホワイトも泣き笑いをする。
「お願いだからもうどこにも行かないで。もう、二度とあなたを離さない、離したくない」
「……ええ、お願い。お願いだからもう二度と私を離さないで」
そのまま二人はどちらからともなくそのまま唇を重ねた。
触れるだけのキスは、すぐに深い物となり、むさぼるような激しい物へと変化して行く。
長い口付けが終わった時、アミール陛下の目は熱い情炎を秘めた物に、スノーホワイトの物はとろんと蕩けた物になっていた。
「愛してるよ、スノーホワイト、……ごめん、もう我慢出来ない。今すぐ君が欲しい。駄目かな?」
「私もアミー様が欲しい、です…、今すぐに」
―――二人がそのまま縺れ合う様にベッドに倒れ込んだその瞬間、
バン!!
「アミール、何があった!!?今、尋常じゃない魔力の流れが…、」
王の寝所に飛び込んで来たイルミナートは、ベッドの上で唇を重ね、まさぐり合う二人の姿を見て絶句した。
「スノーホワイト…?」
「い、イルミ様、ただいま戻りました」
アミール王子の手により半裸になったスノーホワイトが、上体を起こし、片手を上げる。
「ほ、本当にスノーホワイトなのか?」
「はい」
「アキラ?」
「お、おう。お久です、イルミ様」
その答えにイルミナートのかけた眼鏡がずり落ちる。
「イルミ、邪魔をするな。さっさと出て行ってはくれないか」
「あっ…あん!」
戸口に放心状態で立っている男を振り返りもせずに、明らかに不機嫌そうな口調でそう言いながらアミール国王はスノーホワイトの下肢に手を伸ばす。
「きゃぅっ、…あ、だ、だめっ!」
「ああ、シュガーは相変わらず敏感で可愛いね。ごめんね、久しぶりだから1回目は早いかも。でも2回目は時間をかけてたっぷり可愛がってあげるから許して?」
「ひあ、……や、っぁぅ……!」
二人の様子をイルミナートはしばし呆然と見つめていた。
しかしスノーホワイトがアミール陛下の手により一度達したのを見ると、彼は無言で床に服を脱ぎ捨てて王のベッドの上に乗りあがった。
「邪魔をするなだと?それはこちらの台詞だ。アミール、お前が部屋から出ていけ」
「あのさぁ、イルミ。ここ、私の寝室で私のベッドなんだけど」
「お前のせいで私はここしばらく、毎日1時間しか睡眠時間が取れていないんだ。そんな臣下を少しは労るべきだとは思わないか?」
「悪いけど今は部下に施してやる余裕なんてないんだ。と言う訳で、さっさと消えろ」
バチバチと火の粉を散らしながらもスノーホワイトの身体に前戯を続ける事のやめない二人の下で、彼女はある種の嫌な予感を感じた。
彼女の予感は外れる事はなく、バタバタと王の寝所にかつての恋人達がなだれ込んで来る。
「スノーホワイト!!会いたかった!!会いたかった!!会いたかった!!!!」
「ヒル!?」
獣のまま部屋に飛び込んで来た恋人は、宙で回転してベッドに着地した時は人の姿に戻っていた。
頬擦りするその恋人は獣に変化する時に服を脱ぎ捨てて来たのだろう、全裸だった。
「本当にスノーホワイトがいる…!!」
「姫様…!!」
「え、エル、メルヒ!? ひ、久しぶり」
ハッハと犬の様にヒルデベルトに顔を嘗め回されながら、お次に部屋に入って来た二人に片手を上げて挨拶したその時―—、
「アキラ!!」
「え、エミリオ?」
心持ち濡れたような目で部屋に飛び込んで来た恋人の瞳から、涙が溢れだした。
「この馬鹿!帰って来れたのならば、何故もっと早く僕の所に帰って来なかったんだ!?」
「ご、ごめん…」
「……好きだ。好きだ、好きなんだ!お前の事が好きなんだ!!もうどこにも行くな!!」
「へっ?」
怒鳴り散らしながらベッドにダイブして来た恋人は、ヒルデベルトごとスノーホワイトに抱き着いて嗚咽を上げ始めた。
(あれ、俺、こいつに嫌われてなかったんだ……?)
安堵によりスノーホワイトの頬の筋肉が緩む。
「エミリオ……俺も、お前の事好きだよ、大好きだよ」
「アキラ、……では結婚するか」
「……は?」
ほんわかとした雰囲気の中、突然のエミリオ王子のプロポーズにスノーホワイトは目を剥いた。
「なんだよそれ!?」
「なんだよとは何なんだ、お前も僕の事が好きなんだろう?お前は僕と結婚したくないのか?」
ムスッとした顏になる弟王子を見て、イルミナートと口論を続けていたアミール陛下が間に入る。
「駄目だよ、エミリオ。彼女は私の物なんだから、シュガーと結婚するのはこの私だよ」
「兄なら弟に快く譲れ」
「シュガーの事だけは譲れないなぁ」
「聞き捨てられない言葉が聞こえましたね、スノーホワイトは私の妻となるべく為にこちらに帰って来たのです」
「は、いや、それは」
眼鏡をくいっと直しながら余裕の表情で言うイルミナートに、エルヴァミトーレは意地の悪い笑みを浮かべて間に入る。
「スノーホワイトの事に関しては、僕も譲る気はありませんよ、父さん?」
「と、父さん!?」
衝撃の事実に目を白黒させるスノーホワイトの顏に、キスの雨を降らしていたヒルデベルトがそれを聞いて鼻で嗤った。
「バッカみたい。スノーホワイトは俺と結婚するんだもん!!ね、ね?そうだよねアキラ?スノーホワイト?」
「いえ、私です…」
よっこらしょっと自分の膝にスノーホワイトの体を乗せるメルヒの腕から、スノーホワイトを奪い返すのは隻腕の騎士ルーカスだ。
「ちょっと待て待て待て待て!!アキラは俺の!!俺のだから!!」
「シゲ、お前もこっちに来てたのか!?」
「いきなり消えたから心配したわ、大丈夫だったかアキラ」
「う、うん」
「って、大丈夫じゃねぇな。オニーサンが消毒してやるわ」
「ちょっと待て!!お前ホモじゃねえっつってたじゃん!!」
そのまま押し倒されたスノーホワイトが叫ぶと、ルーカスはキリッとした顏で言う。
「お前とホモるのは無理だが、ハニーホワイトちゃんなら話は別だ」
「何だよそりゃ!!」
―――その時、
「あらあら、あなたがこっちの世界のアキラなの? なんだか凄い可愛くなっちゃったわねぇ」
一体いつの間にこちらにやって来たのだろう。
少し赤らんだ頬に手を当てながら、苦笑混じりに呟く母親の姿に、スノーホワイト――…いや、アキラの顏が青ざめた。
「お、お袋!なんでここに」
「あなたがアキラの母上ですか!!前々から婚約のご挨拶に伺いたいと思っておりました!!」
「や、やめて!?お願い、やめてエミリオ君!!うちのママンが誤解しちゃうからやめて!!」
「何をやめる必要があるのだ?僕達は愛し合っているのだろう?あとは母上に僕達の仲を認めて戴くだけだ」
「あらあら、アキラはシゲ君と付き合ってたんじゃなかったの?こっちの金髪の子が本命だったの?」
「既に誤解してるーっ!?」
「どういう事だ?やはり向こうの世界のルーカスと只ならぬ関係だったのか?」
「い、いや、ちが、違…」
悲鳴じみた声を上げるアキラに、エミリオ王子が般若の形相で詰め寄る。
「アキ様、愛しています。ついにお母様との公認の仲になったんですから、もうあとは挙式を上げるだけですね」
「そ、そうだね…」
「ああ、どちらの世界で挙式を挙げましょうか?ああ、どちらの世界の亜姫様に私の子を産んで戴きましょうか?非情に悩ましい問題です」
「ば、馬鹿。お母さんの前でやめてよ、恥ずかしい…」
「……アキ様は私の事がお嫌いですか?」
「そ、そんな事ないよ!!……だ、大好きだよ?」
「それは良かった。でも私の方がアキ様の事を愛しています」
「ち、違うもん!私の方がエンディーの事愛してるもん!」
「アキ様!」
穂波の後には鏡とリディアンネルがいた。
「それよりもアキ様、せっかく真名を教えてあげたんですから、いい加減真名で呼んで下さいよぅ」
「えー、恥ずかしいよぅ」
「お願いです、アキ様…」
「う、うう……え、えんでぃ…?」
「アキ様!!あ、ああ、もう我慢できません!!私達も適当な部屋を勝手に借りてしけこむとしましょうか」
「も、もう鏡ったら♡」
「鏡じゃありませんよ、エンディーです♡」
(な、なんだあれ……?)
誰もが壁を殴りたくなる姉達の馬鹿ップルぶりに、弟の目元と口元が引き攣った。
―――そしてこちらはと言うと、
「母上!!どうか結婚を前提としたお付き合いの許可を戴けませんか!!僕もアキラも本気なんです!!」
「え、そうなの?」
「ちょ、ちょっと!!お願い、エミリオ君!!お願い!!ねえ、ちょっと待って!?」
半裸のまま穂波に詰め寄る王子様のとんでもない台詞に、スノーホワイトはムンクの叫びの様な顏になる。
「それを言うなら私も本気だ。聖女ホナミ、どうかこの国の妃にアキラを戴けないでしょうか?あなたのご子息を世界で一番幸せにすると約束します」
「あ、あらあら、困ったわぁ」
アミール国王陛下に限っては跪き、彼女の手の甲に口づけを落としている。
穂波は赤くそまった頬のまま、息子を振り返った。
「アキラってば。女の子にはモテないと思ってたら、男の子にはこんなにモテモテだったのねぇ」
「いや、ちがう、ちがうんだ、お袋、これはだな」
「お母さん、アキラがこんなに素敵な王子様達に愛されてて嬉しいわぁ」
「ねえちょっとお母様!?息子が女の子になってて、男に迫られてる現実にもっと疑問に持ちましょうよ!!」
「大丈夫よー、お母さんそういうのに偏見ないから。シゲ君とあなたの関係も認めているし」
「はあああ?!だからさっきから何言ってるの!!俺とシゲはそういう関係じゃねーよ!!」
「そうですよ穂波さん!俺、実は下村茂なんですけど、アキラとはそういう仲じゃないッス!!」
「あら、あなたシゲ君だったの?」
「はい、そうッス!!」
穂波は無言になると、息子の乳を鷲掴みしているルーカスの手を凝視した。
「おばさん、硬い事は言わないけど、……避妊はしっかりしなさいよ?」
「あ、いや、これはですね、その」
慌ててルーカスはスノーホワイトの乳房から手を放すが、そんな二人を見る彼女の目は、池をのんびり泳ぐカルガモの親子を見つめる物の様に生温かい。
「なんかすんげー言い訳しにくいんだけど、お袋、これは違うんだ。これには色々と混みあった事情があってだな? その、今の俺は女で、シゲは男で、だから断じて俺達はBLではなく。……長い話になるんだが、俺もシゲも中身が分かってないままこうなっちゃって、それで、これはその流れの名残りとでも言いますか、」
息子の言い訳にもならない言い訳に穂波はにっこりと笑顔になると、手を振って寝室から出て行った。
「お母さん、邪魔みたいだからその辺りを散歩してくるわね」
「お袋ー!?」
「穂波さんー!!」
そして部屋には馬鹿ップルだけが残された。
「エンディー♡」
「アキ様♡」
「エンディー♡」
「アキ様♡」
「お前達はいいからとっとと部屋出てけよ!!」
スノーホワイトが涙目になって馬鹿ップルに叫ぶと、亜姫は不貞腐れた顏になる。
「なんなの、あの態度。折角エンディーの力を借してあげたのに…」
「いいんですよアキ様、では私達も二人っきりになれる場所に行きましょうか」
「そ、そうだね…えへへ」
「アキ様、可愛いらしいです」
「エンディーも格好良いよ」
「ああ、アキ様、今すぐ食べてしまいたい!」
「エンディー、こんな所で駄目だってばぁ!」
そして部屋に残ったのは白雪姫と7人の恋人のみとなった。
「なんだか良く分からないけど、聖女が気を利かせてくれたんだから私達は続きを愉しむとしようか」
「お前、相変わらず切り替え早っ!!」
「だってどのくらい離れていたと思うの?もうシュガー欠乏症で私は息をするのも辛い、早くあなたを補給しないと死んでしまいそうだ」
「それなら私だってそうですよ」
「僕だって」
「俺だってそうだよ!」
「お、俺も、まあ、なんだ」
「姫様…」
「スノーホワイト、さっさと責任をとって僕と結婚しろ!!」
「ちょっと待て、待って!?え、えええええー!!いきなり8pですか!?」
7人の恋人に押し倒され、彼女は絶叫する。
「やだ!!俺逃げる!!逃げる!!超逃げる!!お、お願い、逃がして…!?」
「逃がす訳ないでしょう?愛してるよ、私の愛しの白砂糖姫 」
「可愛い私のカナリア、今夜は私の作った甘い飴細工の籠に閉じ込めてさしあげましょう」
「スノーホワイト、好き!好き!好き!!もう絶対離さないよ!!」
「き、君が望むならこのスカート穿いてあげてもいいんだけど…。ど、どうする?」
「姫様、愛しています…」
「お前等!さっきの話を聞いていたのか!?スノーホワイトは僕の事を好きなんだ!!」
「異世界の男がゾロゾロ出て来ても、俺達の間に入れる訳ねぇのになぁ。だよな、アキラ?」
「ぎ、ぎゃああああああああああああ!!」
ベッドから逃げようとするスノーホワイトの首根っこは14本の手によって、巨大なベッドの中に引き釣り込まれた。
****
「それがさ、どんなに探してもラインハルト様と寵妃ホナミの遺体が見つからなかったんだと」
「ああ、知ってる。俺も捜索隊の一員だったから。……それでもしかしたらって事を考えたんだけどさ、」
「いや、それはないだろ。だってあの高さから落ちて生きている人間はいないだろ?」
「でも片方は人間じゃないし、ありえない話ではないと思わないか?ラインハルト様はあの摩訶不思議な剣をお持ちだし」
雑談をしていた兵士達は、目を前を足早に通り過ぎる男の姿に目を剥いた。
「お、お前、今の見たか…?」
「み、見た。あ、あれは、まさか……」
「リゲルブルクに来るのは何年ぶりかしら」
近くの教会で、正午を告げる鐘の音が気持ちの良い風と共に彼女の元へ届く。
風に煽られ揺れる髪を抑え、耳にかけると彼女は国全体を一望出来るバルコニーの上に立った。
(ここが、あの人が守った国……)
穂波は寂しい唇に力ない微笑を浮かべて、街を見下ろしていた。
ふいに零れ落ちた涙をぬぐったその時―—、
「ホナミ君!!」
「え?」
懐かしい声に彼女は後を振り返る。
後ろに立っていた男の姿に、彼女の瞳にみるみる涙が溢れだす。
太陽の塔の上で、バルコニーの上で熱い抱擁を交わす二人の男女を見守る三人の男女がいた。
「あーあ、つまんないの。結局ハッピーエンドじゃない」
「そう言わないの、これでいいのよ」
ぽかりと狐の頭を叩くのは夜の魔女リリスである。
「なんだ、リリスが気になった人間達って俺が気になった妖魔のお兄さん達のお仲間じゃん」
「まあ、私達が気になるレベルになる人間なんてそうは現れないって話しよね」
リリスの答えに、失刻の賢者は大きな欠伸を噛み殺す。
「陳腐だわ…陳腐だわ…」
そう言って空に溶ける様にして消える狐を二人は見送る。
―――澄み渡る青空の下で、子供の様に泣きながら抱き合う男女がいた。
「ホナミ君、ああ、本当に、本物のホナミ君なんだね…!?」
「ハル、会いたかった!!会いたかったよぉ!!」
二人の頭上を横切った半透明になった狐の口元が、少し嬉しそうに歪む。
「でもいいわ、私も楽しかった」
(ラインハルト、幸せにね)
それは雲一つない、良く晴れた日の午後。
気が遠くなるほど遠くて遠い、世界の果て。更にその先の向こう側にある別次元の異世界で生きる愛しい人の頭上にも、同じ青空 が続いていると信じ続けた男女に起こった奇跡。
『白雪姫と7人の恋人』と言う18禁乙女ゲーヒロインに転生してしまった俺が全力で王子達から逃げる話
《END
0 komentar:
Posting Komentar