恋人7、Grumpy
「勢いで逃げて来ちゃったけど、どうする?」
僕は気配を殺して二人に近付いた。
今僕が立っている丘の前方には滑らかな斜面が続いている。
途中でその斜面は急傾斜となって斜度が増すので、二人のいる位置からは首を上げても僕の姿を確認する事は出来ないがこちらからは二人の事を良く見る事が出来た。
ルーカスがスノーホワイトの手を引き、馬上から草原の上に下す。
一瞬「また抜け駆けをして!」と怒鳴りそうになったが、二人の表情を見るに何やら様子がおかしい。
ルーカスがスノーホワイトを朝の遠乗りデートに誘ったと言う訳ではないのかもしれない。
「どうするって、どうしよう?」
「このまま駆け落ちでもしちゃう?」
「お前と駆け落ちとか洒落になんねぇよ」
駆け落ちと言う言葉に頭の中が真っ白になる。
(ルーカスとスノーホワイトが、そんな…、)
しかしそれから続く二人の突拍子のない会話は、更に理解に苦しむ物だった。
「シゲ、実は明日」
「明日何かあったか?」
「アミール王子の夜なんだ」
「それってむしろチャンスなんじゃね?あの王子様がお前にベタ惚れなのは事実なんだ、スノーホワイトちゃんのそのパーフェクトボディーを使って何とか聞き出せよ」
スノーホワイトに体を使ってアミールから何か聞き出せと言うルーカスに、「まさかこの二人はどこかの国の諜報員だったのか!?」と緊張が走るが、話の続きを聞くにそういう事ではなさそうだ。
二人の話をまとめると、二人は何者かに召喚されてこちらの世界に来た。アミールがその召喚主について何か知っている。元の世界に帰るには、アミールからその情報を聞き出さなければならないと言う事らしい。
(この二人は、一体何を言っている…?)
二人がアミールと何かあったと言う事は理解したが、彼等が何を言っているのか僕にはさっぱり判らなかった。
それよりも何よりも僕が一番ショックだったのは、スノーホワイトの粗野で乱暴な言動だった。
スノーホワイトは一体どうしてしまったと言うのだろう?
男の様な言葉遣いで話し、草の上にどっしりと胡坐をかいて座るその姿は普段の彼女とはまるで別人だ。
「うるせぇな、マグロになってもどうせビントロとかそういうオチだろ!分かってんだからなもう!!」
「ビントロかー。やっぱマグロ界の中では一番の敏感っ子なんだろうなぁ、いやらしい」
「はあ?海で一番いやらしいのはヤリイカだから。アイツ等絶対毎日ヤリまくってるから」
「懐かしいなおい。サバはサバサバ系女子の新垣で、ブリはブリッコあさみんだろ」
(あれはスノーホワイト…………だよな…?)
もしかしたらあれはスノーホワイトと良く似た別人なのではないか?
いや、もしかしたらこれは悪い夢か何かなのかもしれない。
僕は信じられない思いで、スノーホワイトの皮を被った何かを見つめる。
リゲルブルクとは女神ウンディーネ崇拝の国柄故に女性上位の風習が色濃く残っている。
よって、私が!私が!私が!と男を押しのけて自分が前面に出て来る女性が多い傾向にあった。
そんな国で生まれ育った僕からしてみれば、スノーホワイトは初めて会うタイプの女性だった。
心臓が止まるかと思ってしまうほど凄みのある美貌の持ち主だと言うのに、同時に彼女には詩集に挟まれている押し花のしおりの様な奥ゆかしさがあった。思慮深く控えめで、泡雪のように儚く、しかしながら芯は強い。強い風に煽られてもけっして折れない花の様に、いつも凛とした表情で前だけを見つめている。その姿は山百合のように気高く、新月のように清らかで、立麝香草 のように香り高い。彼女を見た者は誰もが自然と背筋を正してしまう。スノーホワイトはそんな高貴さと清楚さを兼ね揃えている女性だった。
人の話をろくすっぽ聞きもしない我が国の女達に辟易していた僕の目に、彼女はとても魅力的な異性として映った。
スノーホワイトは他の女達がする様に多くを語らなくて良かった。
彼女はただそこに佇んで黙って微笑むだけで良い。
それだけで僕には、彼女が内に秘めた美しさや高潔なる精神が伝わって来るのだ。
何も語らずとも僕は彼女を理解する事が出来た。
しかし今の彼女はどうだろう?
もしやあれが彼女の本性なのだろうか?
自国の甘やかされた貴族の娘達よりも酷い。
今の彼女は、僕の知る物静かで楚々たる風情の深窓の姫君とは真逆の女だ。
あまりにもショックが大きくて、二人の会話がろくに頭に入ってこなかった。
ルーカスは何も思わないのだろうかと思ったが、彼は彼女の男の様な言動を気にする素振りも見せない。
(アキ…ラ……?)
良く良く聞いてみれば、ルーカスはスノーホワイトの事を聞き慣れない珍しい名前で呼んでいる。
スノーホワイトもルーカスをシゲと呼んでいる。
「あー…そのよ、なんだ? 俺達色々あったけどよ、今は元の世界に帰る為に協力しあうべきだと思うんだよな。や、俺は別に一人でも問題ねぇけどお前は女の体だし?しかも超可愛いし、護衛は必要だろ?だから、お前がどうしてもって言うんなら」
(元の世界…?)
―――そう言えば先程も彼等は自分達は何者かにこの世界に召喚されたと言っていた。
「どうしよう、マジでプロポーズされちゃったんですけど。……この流れでアイツとヤったら、結婚するって言うまで絶対許して貰えない…」
しかし次の瞬間、スノーホワイトがアミールに求婚されたと言う衝撃の事実を耳にした僕の思考は再度停止した。
(アミールが、スノーホワイトに求婚しただと!?)
「で、でもよ、宰相殿とか文官の坊ちゃんじゃないんだし、そんなにアレな攻め方はされねえだろ?朝まで逃げ切れば…、」
「そっか、シゲ、お前は知らないんだ…」
「何を?」
「あの王子様、二人でする時はかなりねちっこいんだよ…」
「あ、そう…。ちなみにどんな感じか聞いて良い?」
「……一晩中、ちんぽ挿れっぱなしで、『ちゃんと私の形を覚えるんだよ?』とか言って、『来週まであなたのここが私の形を覚えていなかったらお仕置きだからね』とかさ、絶対無理な事ばっか言って俺の事イジメるんだよ…」
「…………。」
「そんなん絶対無理に決まってんじゃん?だってその間他の6人のちんぽが入れ代わり立ち代わり入る訳なんだから。まんこってそんな高性能の形状記憶装置持ってないだろ?形状記憶シャツじゃねぇんだからさ…」
「…………。」
「絶対今週も『ああ、酷い。たった一週間しか経っていないと言うのに、もう私の形を忘れてる。私は姫シュガーの体を全身隈無く覚えてるのに悲しいなぁ。今夜は私の形や色、匂いから味までじっくりと思い出させてあげるからね』とか言って、また一晩中……うっ、ぅぅ…、」
膝を抱えて泣き出すスノーホワイトに、ルーカスは困惑気な表情を浮かべるがそれは僕も同様だった。
男性器や女性器を下賤な俗語で平然と口にするあの女が、僕の知るスノーホワイトと同一人物だとは思えない。
―――しかし、彼女はやはりスノーホワイトなのだろう。
『後からじゃあなたの可愛い顔が見えなくて寂しいな』
そう言って、先日アミールが彼女の首筋に付けたキスマークの痕を確認する。
(嘘だ、こんなの絶対に信じない……)
力なく首を横に振る。
「なんて下品な女なんだ、貴婦人の風上にもおけない…」
口から洩れた言葉は、草原の風に乗って掻き消えた。
(こんなの、スノーホワイトじゃない…)
慎み深い深層の姫君のイメージがガラガラと崩れて行く。
立ちくらみがして、口元を押さえながらその場にしゃがみ込む。
貧血だろうか?
そう言えば最近あまり食欲がなくて、ろくに食べていなかった気がする。
「……じゃあさ、俺と付き合うって皆の前で公表しちゃおうぜ?だから他の男とはもうエッチ出来ないって言えば、あの王子様と二人っきりのセックスも避けられるだろ?」
「それだ!!」
パン!と手を叩き合いにんまりと笑う二人を、僕は小丘の上から茫然と見下ろす事しか出来なかった。
「でさでさ、今だから聞くけど、お前ブリッコあさみんの事好きだっただろ?」
「ないないないない。そういうお前こそ新垣みたいな面倒見の良い委員長タイプの女、昔から好きだったよなー」
「そうだっけ?」
「いっつも掃除当番サボってさ、あれ、新垣に声かけて貰いたかったからなんじゃねーの?」
「んな訳ねぇだろ、お前の目は節穴か」
「じゃああの頃お前誰好きだったの?」
「そ、それは…」
「ちょ、ちょっと待て。なんでそこで赤くなるんだ。…実はお前がBLで俺の事愛してたってオチだけはやめてくれよ」
「ねぇよ!自分の前世の顔思い出せやこのキモオタ!!」
「るせーな!!じゃあなんでさっき赤くなったんだよ!!何だかんだ言って、実はお前、俺の事愛してたんじゃねーの!?だから小中高と俺にうぜーくらい絡んで来たんじゃないの!?」
「ねえよ!!マジでねぇから!!――…まあ、小学校 の頃はお前と遊んでた方が純粋に楽しかったから、好きな女とかマジでいなかったんだけど…、」
「えっ!?…………あ……う…、うん、ごめん」
「やめろやめろやめろやめてくれ、なんでそこで赤くなる!?お前まで赤くなんなよ!その超絶美少女フェイスでそんな顔されたらなんか俺、道踏み外しちゃいそうだから!!『実は俺、お前の事ずっと好きだったんだ。これ前世からのデスティニーじゃね?』とかリップサービスしたくなっちゃうからマジでやめて!!」
「…………いや、そんなリップサービスされても超迷惑だし純粋にキモイだけだからやめてね下村君」
「あああああ!!悔しいけどその冷たい眼差しもクッソ可愛い!!今度はスノーちゃんがS役ね!!オニーサン、その冷たい目でスノーちゃんに蔑まれながら足扱きされたいなっ!!」
「や、やめろ変態ィいいいいいっ!!つかさっき2発も抜いてやったばっかだろ!!お前は盛り過ぎだ!!」
「そんな可愛いお姫様に産まれ変わっちゃったお前が悪い!!全部お前の自業自得!!だから黙って俺に犯されとけよ、な?」
「ぎゃあああああああああ!!」
(――――…前世?生まれ変わった? こいつらは、一体誰なんだ…?)
どうやら目の前にいる男女は僕が良く知っている二人ではないらしい。
二人の変貌に驚き、僕はしばし瞬きをする事も忘れていた。
結局、二人はその場で交る事はなく、小屋に帰宅する事にしたらしい。
僕も二人を追う様にそっとアダルジーザの所まで戻った。
―――そして、
「あの、今日は皆さんに大切なお話があるんです」
「そうそう、ご報告があるんですよ!」
小屋に戻って早々、二人は手を繋いでぎこちない笑顔を浮かべながら居間の真っただ中に来ると、
「俺達!」
「私達!」
「付き合い…、」
「結婚しまーす!!」
―――巨大な爆弾を落とした。
その効果は上々だった。
獣と化し暴走するアミールの騎士。抜刀しそれに対峙するルーカス。更にはヴィスカルディーと文官の魔力が漏れ出して小屋全体が凍り付く。
各々に皆、激しい取り乱しようだったが、事前に彼等の企てを聞いていた僕は取り乱す事はなかった。
いや、事態を把握しようと必死だったのかもしれない。
実は帰り道、僕は「今見たものは夢だったのではないか?」と何度も何度も自問自答したのだ。
しかし今、二人はあの時話していた内容をそのまま皆に話した。と言う事は、あの時僕が見た物も聞いた物も夢ではなく現実となる。
―――そして、
「ありがとう、メルヒ。……って、待て待て待て待て!!銃は駄目!!銃はまずい!!」
「何故ですか?銃はとても殺傷能力に優れた武器です」
「どうしよう、このオッサン殺す気満々だよ!!」
良く良く観察してみると、猟師を必死に抑えるスノーホワイトはあの時と同じ男の様な口調になっている。
なるほど、やはりアレが彼女の真の姿なのだ。
(でも、何故ルーカスにだけ…)
チクリと胸が痛んだ。
騙されたと思った。
どんなに見てくれが美しくとも、あんな品性の乏しい女僕には相応しくないと思った。
同時に彼女の事を良く知る前に関係を持ったのは、他でもない僕自身だった事を思い出す。
あの日あの場所で、僕はスノーホワイトに抱いてくれとせがまれた訳ではないし、僕は別に彼女に襲われた訳でもない。あの時、僕自身が「今ここで彼女と契る事が出来るのならば死んでも良い」と思い、彼女と関係を持ったのだ。これは完全に自業自得だ。
(でも、まさかあんな女だったなんて思う訳がないじゃないか…)
しかし一番痛撃を受けたのはその事ではなかった。
彼女がルーカスにだけ本当の顔を見せていた事がショックだった。
(何故、僕ではなくルーカスなんだ)
スノーホワイトと出会った時期なら僕とルーカスは同じはずだ。
やはり年齢だろうか?
彼女は僕よりも年上のルーカスの方が頼りになると思ったのだろうか?
(いや、違う…)
恐らく先程彼等がしていた前世の話に鍵がある。
それとも二人は彼等が話していた通り、前世からの知り合いなのだろうか?
『俺達色々あったけどよ、今は元の世界に帰る為に協力しあうべきだと思うんだよな。』
ルーカスの発言を思い出すに、前世と言うのは正確ではないのかもしれない。
元の世界……この世界ではない他の世界の事を指しているのならば”異世界”、とでも呼ぶべきなのだろうか?
二人は本当に異世界からやってきた人間なのだろうか?
(――――…いや、そんなまさか)
異世界なんてある訳が……と思ったが、僕の亡き母は異世界から聖女を召喚している。
そう考えるとありえない話ではないのかもしれない。出来る人間は限られて来るが。
(まさか聖女ホナミと同じ世界の…?)
その他に異世界があるのか僕の知る所ではないのだが、一番身近で現実的な異世界と言えば僕の中では聖女ホナミがやって来たと言う”二ホン”と言う国だった。
何となく頭に浮かんだ考えは、何故か不思議と間違っていない様な気がするのだ。
二人とも二重人格か何かなのだろうかとも思ったが、それよりも異世界から来た得体の知れない物が二人の中に何かが入り込み、憑りつかれたと思う方がしっくりと来る。
スノーホワイトがアキラ、ルーカスがシゲでシモムラ。――…確かに二人はそう呼び合っていた。
(我が国の女神様に聞いてみれば何か分かるのかもしれないが…)
聖女を召喚した時、母に力を貸したのはウンディーネその人だったと言われている。
しかし僕は生憎ウンディーネの姿を見る事が出来なければ、彼女の声を聴く事も出来ない。
―――思えばそれが僕がアイツに敵わないと思っている一番の理由なのかもしれない。
長きに渡る人との交わり合いの中で、ウンディーネの血と共にその力は薄まって来ている。いずれ彼女の声を聴く事の出来る者はいなくなるだろうと言われているが、歴代の王や女王は皆彼女の声を聴く事が出来た。
だからこそ彼女と意思疎通の出来るアミール以外の兄弟は、僕も含めて我が国の玉座には相応しくないと思う。
(最近誰か水の神殿で召喚魔術を試みたのか?)
しかし今現在、我が王室には異世界から誰かを召喚出来る程の魔力を持った人間はいないのだ。
国内でもそんな大それた魔術を使える程の魔力を保有している人物の心当たりはない。
ヴィスカルディーと文官はそこそこ大きな魔力を持っているようだが、しかしそれでも彼等は男だ。水の神殿には入る事は出来ないし、ウンディーネから力を借りる事も出来ない。
(まさかウンディーネが単身で?しかしそんな事を彼女がするのだろうか?)
それこそアミールの奴に聞くしかなかった。
一度この事についてアイツとじっくり話をしなければならない。
(それよりも何よりも、僕は彼女の事をどう思っているのだろう?)
自分の騎士の背中の後で守られている可憐な姫君の姿を見て、また胸がチクリと痛んだ。
僕も抜刀してルーカスに加勢でもしてみれば良いのだろうか?
そうしてもっと頼りになる所をみせてやれば、彼女も何かを僕に打ち明けてくれる気になるのだろうか?
そう思いはすれど、今の僕には剣を抜く気力すらなかった。
ただその場に木偶の坊の様に突っ立ったまま、成り行きを見守る事しか出来なかった。
騙されたと言う怒りは既になかった。――今胸にあるのは、ルーカスが今しがたスノーホワイトにした求婚へと、二人の前世からの繋がりへ対するモヤモヤとした感情だけだった。
嵐の様な時間は過ぎて行き、あっという間に夕刻となった。
最初は「何故僕がこんな事をしなければならないのだ…」「家を壊した者が責任を取って直すべきだ」と思ったが、アミールとルーカスに背中を押される形で小屋の修復を手伝う事になった。
最初は嫌々だったが、木の壁に防虫・防黴・防腐剤が含まれたペンキを塗り、はっ水効果があるオイルステインを塗り、仕上げ時にサンドペーパーをかけると言う作業は意外にも楽しく、思わず時間を忘れて取り組んでしまっていた。
サンドペーパーをかけた場所にふっと息をかけて削った粉を飛ばす。
白い粉の中から現れたのは、我ながら見惚れるほど美しい艶と輝きを放つ木の木目で感嘆の声が漏れる。
「うむ、悪くない仕上がりだ」
やはり僕は天才かもしれない。
僕の塗った場所はムラや気泡が一切がなく、美しい仕上がりとなっている。
「流石ですね、エミリオ様!」
「まあな」
熱い溜息を洩らしながら、恐らくこの世界で最も美しいだろうと思われる外壁を見つめていると、横で木板にサンドペーパーを掛けていた文官も僕の才能を称えた。
「エミリオ様って手先も器用でいらしたんですね。お描きになっている絵を拝見させて戴いた所、とても個性的な画風と言いますか、…あ、いえ!とても男らしいと言うか、荒々しく前衛的なタッチがお得意な方だと思っていたので、少し意外でした」
「意外とはなんだ、失礼な奴だな」
「し、失礼しました」
破壊された家も大分修復し、一息つきながら雑談していた時の事だ。
「姫 、寒くはないかい?……少し汚れていて悪いけれど、これを羽織ると良い」
少し離れた場所でアミールが自分の上着をスノーホワトにかけているのを見て、言われてみれば少し肌寒いかもしれないと言う事に今更ながら気付く。
昔からアイツはこの手の事に関して、本当に良く気が回る男だった。
「ありがとうございます」
血の様に真っ赤な夕日をバックに微笑み合う男女の姿は完成された絵画の様に美しく、見ているだけで胸が締め付けられる。
二人の後にある森の木々達は黒い塊となって、空の美しい赤を劇的に魅せ、ひいては二人を引き立てる役を担っている。
この絵に名を付けるのならば、”恋人達の夕暮れ”だろうか?
額縁のガラスの向こうに閉じ込められた二人は、僕が付け入る隙などない完璧な絵画として完成された愛し合う恋人達の様に見えた。
「僕、お茶でも入れてきますね!」
兄に負けじと小屋に駆け戻る文官に、「あ…、」と間の抜けた声が漏れる。
たった今まで僕の隣で木板を長さを測っていた少年は、もうそこにはいなかった。
(またしても出遅れてしまった…)
ついさっきあの少年と自分が同じ年だと言う事を知ったが、あの少年は顔に似合わず(と言ったら失礼かもしれないが)バイタリティに溢れハングリー精神が強い。
ヴィスカルディーの家の事情で、貧しい育ちの出だと噂で聞いたがそれが関係しているのだろうか?
思い返してみれば僕が城で会った官僚や守衛兵、下女も、庶民の出の者は裕福な家の出の者と比べ、気骨のある者が多かった様な気がする。
良く言えば生命力が強く、野心的で物怖じしない。
悪く言えば不遠慮で、礼儀を弁えておらず賤しい。
夏のバカンス以外に城の中から出る事もなかった僕には、庶民の暮らしなど想像も出来ない世界だった。
彼等が日々何を考えながら生きているのか、彼等がどんな暮らしをしているのか、彼等がどんな景色を見て、何を感じ、何を考えながら生きて死んでいくのかも判らない。
こう言っては何だが、僕にとって民とは究極の赤の他人でしかなかった。
こちらの苦労など何も知らない癖に、僕達が贅沢をしていると羨み、妬み、猜忌の念から逆恨みし、時にデマに扇動され、暴動まで起こす厄介な存在。基本的に僕達が何かしてもしなくても勝手に生きて勝手に死ぬ。
税を上げれば石を投げて文句を言う癖に、父やアミールが低い税率のまま苦心しながら治水工事や公共事業に取り組んでも感謝もしない。ろくに税も払わぬ奴等程、それが当然の権利だと言う顔をしてふんぞり返っているイメージしかなかった。アミールの話によると納税額が高く、爵位も発言権も大きい貴族の方が厄介な存在らしいのだが。
勿論王室を愛している民が国の大多数であると言う事は知っている。だからこそ我が国はここまで大きくなったと言う事も理解している。
この国の王族と言うだけで、僕は幾千万の称賛の言葉や敬愛の念を一身に受けて産まれ育った。
しかし不思議な事に、いつだって心に残るの愛国心溢れる民達による過褒気味の称賛の声ではない。
心無い人間の何気ない一言は、肺の中にコロコロと入り込んでしまった小石の様にいつまでも消えない不快感を伴って、悪意ある人間の辛辣な言葉は、胃の底に重石の様にどっしりと居座ってその存在感に時折重苦しい溜息が出る。
全てから耳を塞ぐようにして必死に見なフリを続けて来た民達に、僕は城を出てから初めて向き合っている様な気がする。
あの逃走劇で手助けしてくれた老兵達、敗走途中の僕達に馬や食料を恵んでくれた街の人々。今一緒に暮らしている文官や兄の騎士、スノーホワイトの従僕、そしてルーカス。
城を出て、野に降りて初めて知った。
世界は僕の想像を超えて広く、僕の常識内では計り知れない人種が沢山居た。
僕には想像もできない世界だが、彼等には彼等の世界で色々な戦いがあるのだろう。
扉の向こうに消えた文官の背中を見て、僕は小さく息を吐く。
(彼女を愛する男として僕も何かすべきなのだろうか?)
今の様に僕が自分の席について料理が用意されるのを待っている間に、調理場に駆け込んで皿の上の料理を掻っ攫って行くのが下々の者達のやり方だ。
彼等のそんな無作法で無遠慮な彼等品性に欠けた所業を忌々しく思う事もあったが、もしかしたらそれが庶民の世界で生き抜く為の処世術なのだろう。
もしかしたら僕も「なんて下賤な連中なのだろう」と眉を顰めていないで、彼等から何か学ぶべきなのかもしれない。
(茶菓子は茶と一緒にあいつが用意するだろうし…)
そう考えると今自分に出来そうな事は特にない。
(そもそも、この僕が何故その様な事をしなければならない!?むしろお前が僕を労い、茶でも持ってくるべきだろう!!)
今何かしてしまったら他の男達同様、僕も彼女の虜だと言う事を暗に認めてしまった事になってしまう様な気がする。それはそれで癪に障る。
そもそもこの僕が何故あんな猫を何百匹何千匹と被った下賤な女に媚びを売り、下手に出なければならないのだろうか?
悔し紛れにキッ!とスノーホワイトを睨むと、僕の視線に気付いたらしい彼女は、何故か少し怯えた様な顔をして僕から目線をそっと逸らした。
そんな彼女の反応に益々苛立ちが募って、歯軋りしながらそちらを睨んでいると、小屋の方からガラスが割れる音と盛大なクシャミの音がした。
「大変!私手伝って来きます!」
「ならば私も行こう」
顔を見合わせると二人は小屋に向かって走り出す。
さりげなく、自然な様子でスノーホワイトの手を繋いでいる兄の早業を見てまた苛立ちが募る。
―――その時、
「で、答えは?―――…今日一日考えられただろ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃねぇの?」
二人の前に立ちふさがったのは、昼間彼女に求婚をした僕の騎士だった。
(仕方ない…)
僕は重い腰を上げる。
「ルーカス。お前の主として、――…いや、この国の王子としてお前に大事な話がある」
「は?悪いですけど、こればっかりはエミリオ様でも……、」
間に入った僕に彼は邪魔をするなと言った顔になるが、それはこちらの台詞でもある。
それが例えフェイクであったとしても隣国の姫君に求婚、そしてその相手が兄の婚約者となれば僕の部下の管理不行き届きとなる。
普段の彼ならば僕がこんな事を言わずとも気付く事だろうが、やはり今のルーカスは様子がおかしい。
そして気のせいではなければ、先程のルーカスの求婚はフェイクではなく本気にも見えた。
ならばそれはそれで、長年仕えて来た主に何も言わずに女に求婚したと言う事になる。筋は通して貰わなければならないのはこちらの方だ。
ルーカスなのかシゲなのかシモムラなのか判らないが、どちらにせよ奴が僕とアミール対して非礼を働いている事には代わりない。
―――そして彼は我が王家の制約を知らない。
「まずは僕の話を聞け。聞いた上でもう一度彼女に求婚すれば良い。その時は僕も彼女を愛する一人の男として、誠心誠意お前に向き合ってやる」
そして僕はルーカスを連れて森に入り、少し離れた場所まで来た。
「話って何ッスか?あの、悪いんですけど、あんまり今お兄様とスノーちゃんを一緒にさせたくないんスよ、時間がないので手短に――、」
「なるべく早く話が終わる様に善処するが、期待はするな」
そして僕が話した内容に、彼の顔はどんどん青褪めて行った。
「すまん、長くなった。まあ、そういう訳なんだ。僕とアミールは彼女の愛を得る事が出来なければ死ぬ」
「マジッスか…」
「僕は戦いが終わった後、彼女を懸けてアイツに真剣勝負を挑もうと思っている。そして負けたら一人去る予定だ」
「エミリオ様は……それでイイんスか?」
ルーカスは蒼い顔を上げる。
「真に国の事を思うのならば、何も言わずにアミールに彼女を任せて去るべきなのだろうが、それも悔しいだろう?それに僕がアイツを打ち負かす可能性だって十二分にあるしな」
虚勢を隠して自信に満ちた笑みを浮かべると、彼は力なく笑う。
「脅迫している様で悪いが、僕とアミールの二人が死ねばそう遠からずリゲルブルクは滅びる。それを知った上で彼女に求婚したいと言うのなら改めてすれば良い。その時はリゲルブルクの第二王子として、まずはこの僕が受けて立ってやろう」
そう言ったものの僕は抜刀しなかった。
目元を抑えて項垂れるルーカスから戦意を感じられなかったからかもしれない。
「……あの晩餐会に出席さえすれば、僕は彼女の顔を知っていたはずだったんだ。出席せずとも、アミールが僕の代わりに出た席で一目惚れしたと言う、リンゲインの姫君の姿絵を確認する機会は幾らでもあった。それをしなかったのは僕の怠慢だ。僕に関しては自業自得の部分が大きいので、お前が気に病む必要はない」
「…………。」
「しかしアミールが消えればリゲルブルクが受けるダメージは計り知れない。あいつなしで我が国が立ち行くとは思えない。……悔しいがあいつは優秀だ。この国の民の命と秤にかけても彼女が欲しいと言うのならば、」
「あの、エミリオ様、」
「何だ?」
「この事、まだスノーちゃんは知らないんですよね?」
「ああ。僕は知らせるつもりはないし、それは兄も同じだろう。お前にも出来たら黙っていて欲しい」
「…………。」
ルーカスは――、いや、彼の中の人物は、蒼白の表情のまま考えている様だった。
「そんなの、言える訳ねぇ。言ったらアイツは……くっそ!!」
ガッ!!
ルーカスが近くの木の幹を殴打する。
木の葉が揺れ、木の枝に止まっていたらしい鳥がバサバサと飛び立つ音がした。
「こんなの!どうすれば良いんだよ!!」
僕は苦悩するその男を、静かに見つめていた。
―――ルーカスなのか、シモムラなのか、彼が一体何者なのか僕には判らない。
しかしルーカスの正体が何であれ、今目の前で苦悩している男は僕の良く知っている男で合っている様だった。
(ルーカスがそうなら、恐らく彼女もそうなのだろうな)
それならば僕はもう何も迷う事はないだろう。
****
僕達はそのまま森の中で一夜を過ごした。
「頭ん中はまだグチャグチャなんスけど、…そろそろ帰りますか」
力なく笑う騎士に僕は無言で頷く。
一晩一緒に居て確信を深めた。――…中身が何であれこの男は僕の騎士だ。小さい頃からずっと僕の傍にいた騎士で合っている。
僕は今まで通り、彼を信用して自分の背中を任せて良いだろう。
何かが吹っ切れたのか、帰り道はやけに晴れ晴れとした気分だった。
やはり親しい者を疑うのも、疑い続けるのも辛い。
「やばい…」
ピタリと足が止まったルーカスを僕は振り返る。
「どうした?」
「…………何か猛烈に嫌な予感がするんスけど。昨日って、エミリオ様がスノーちゃんと一緒に寝る日だったじゃないですか」
「そうだな」
「昨夜はエミリオ様が不在だったので、彼女は一人で寝ていた…んですよね?」
「さあ。もしかしたら繰り上がりで次の男の番になっているかもしれないな」
「繰り上がり?…えっと、エミリオ様の次は確か、」
「アミールだ」
僕が言い終わらない内に、ルーカスは駆けだした。
「やべぇ!!!!」
「お、おいルーカス!?」
森の中に一人残され、この男は王族 の護衛としてどうなのだろうか?と改めて思った。
例え今いるこの場所がアミールの張った結界内で、魔獣や妖魔に襲われる心配がないとは言え、狼や猪が出る危険性は十分あるのだ。ただの野生動物に僕が後れを取る事などはないが、あいつは僕の護衛としての責任感はないのだろうか?元々僕の護衛中でも昼寝をしている、不真面目な男ではあったのだが。
王都へ帰ったら少し減給して、お灸を吸わせてやった方が良いのかもしれない。
溜息混じりにスーカスを追い、そして――、
「アミール!!お前だろう、アキラをどこにやった!?」
「さて、何の事だろう?私には分からないな」
開けっ放しの入口のドアから部屋に入ると、それは既に始まっていた。
「ルーカス…?」
ルーカスが鬼気迫る表情でアミールの胸倉を掴み上げている。
クツクツと喉で嗤うアミールの暗い瞳は、正気の物には見えなかった。何かまずい事が起こったのだと言う事だけは判った。
(これは…?)
その時、部屋の中の空気が変わった。
大きな滝の前に立っている時に感じる様な、ひんやりと心地よいこの感じには覚えがあった。
水の神殿の傍を通った時、建国記念日の祭典の時に城のバルコニーに立った時、僕の誕生日の式典の時に、アミールの奴が「今、エミリオの隣にウンディーネがいるよ」と言った時と同じ空気の流れに、僕は視線を宙に漂わせる。
「ウンディーネ、そこにいるのか…?」
僕の漏らした言葉に応える様に、誰かが力強く頷いた様な気がした。
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