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恋人6、Dopey
「綺麗な月夜だねぇ、そうは思わないかいウンディーネ」
言って後を振り返るが、つい先程まで私と語らいをしていた少女の形をした精霊の姿は既になかった。
蒼の満月が近い。
更にマナの祝祭日が近いからだろう。
こんな夜、我が国の女神様は月の光を浴びて、夜空を飛び回らずにはいられない性分らしい。
苦笑を浮かべつつ窓辺からテーブルに戻ると、飲みかけの白ワインのサングリアが入ったグラスに口を付ける。
グラスの底に沈んでいたマスカットの実を一粒取り出して口に放り込むと、白ワインの甘味と、輪切りにして漬け込んだレモンやライムの酸味が染み込んでおり、洗練された味わいに仕上がっている。
「へえ、驚いた」
このフレーバードワインを白で作るのならば、中に漬け込む果実はマスカットが一番合っているのかもしれない。
最初スノーホワイトとエルヴァミトーレがワインの中に葡萄を漬け込むのを見て、「葡萄酒の中に葡萄の実を漬け込むだなんて…」と内心眉を顰めたものだが、これはこれで中々良い。
ただ一つ難点を上げるとすれば、このフルーツワインは自分には少し甘すぎる。
スノーホワイトの話によると、中の酒が減ってきたらブランデーや砂糖を足していくそうなので、今自分のグラスの中にブランデーを注ぎ足しても良いだろう。
グラスの中に更にブランデーを注ぎ、それをちびちび舐めながら窓の外の月を見上げる。
蒼白い月光を浴びて、楽しそうに夜空を飛び回るウンディーネの姿を見守りながら先程彼女としたやり取りを思い出す。
私の手元にあるのは、キッチンに貼ってあったメモ書きだった。
スノーホワイトが書いたそのメモの文字は、以前父の執務室でこっそりと盗み見をした異世界の文字と同じ物だ。
何故この異界の文字をスノーホワイトが知っていたのか?
―――以前から、いや、再会してからずっと疑問はあった。
彼女は彼女だ。
幼き頃、ルジェルジェノサメール城の天使の庭で追い駆けっこをしたあの小さなプリンセスで合っている。
しかし今の彼女は私の知っている昔の彼女と違う女性の様な気がして仕方ないのだ。
離れていた期間が10年少々あったとは言え、この違和感は一体何なのか。
その疑問を決定付けたのはキッチンのそのメモ書きだった。
『スノーホワイト、その文字はどこの国の言葉なの?見たことのない文字だけど』
『秘密よ。秘蔵のレシピはこの文字で書く事にしているの』
訝し気な表情を浮かべるエルヴァミトーレに、悪戯っぽい笑みを浮かべるスノーホワイト。
『おかしいなぁ。僕、学生時代は考古学を専攻でやってたから、この手の文字には詳しいはずなんだけど……全然読めないや』
『うふふ、読めたらむしろ私が驚くわ』
『ああ、アミー様丁度良い所に。――これ、読めますか?』
エルヴァミトーレに差し出されたメモには、見覚えのある異界の文字があった。
(これは…)
見覚えがあるどころではなかった。
私は以前、父の執務室にあるデスクの扉の奥に厳重に鍵をかけて隠されてある、異界の文字で書き連ねられた文書の解読に励んだ事があるのだ。
(読める…)
そのメモに書いてあったのは、スノーホワイトの言う様にレシピではなく、私達7人の恋人の食事の好みや苦手な食べ物だった。
そして1週間に一度はどの恋人も好きな食べ物なりデザートなりが当たる様にとローテーションを組んである、この先1カ月のメニュー表だった。
私はメモを持ちながら愕然としたまま、鼻歌を歌いながら鍋をかき混ぜる彼女の背中を見つめる。
『どうなされました、アミー様?』
『……いや』
邪気のない笑顔でこちらを振り返る彼女に、何故か私はそれを聞き出す事が出来なかったのだ。
実際、彼女に何と聞けば良いのか分からなかった。
それに上手い言葉が見つかったとしても、彼女が正直に話してくれそうにない様な気もしていた。
そして私は先程それを知っているであろう人物、――…ウンディーネに問い正した。
『だってベルちんの夫君ピンチじゃーん?リゲルブルク滅びそうじゃーん?もっかい聖女呼ぶしかないじゃーん』
悪びれたそぶりも見せずに、あっけらかんと答える少女に私は閉息する。
宙にふよふよと浮遊している長い水色の髪の少女の名前はウンディーネ。
リゲルブルクを守護する水の女神であり、我が王家の始祖とも言える存在である。
―――リゲルブルクの王室の人間は厳密に言うと人間ではない。
水の精霊であるウンディーネの血が流れている。
だからこそ普通の人間は見る事の出来ない物や、彼女の姿も見る事が出来る。
彼女の血が濃かった時代は強力な魔力を持って生まれる王族が多かったらしいが、今はもう人の血が濃くなりすぎた。結果、魔力を持って生まれる王族の方が稀で、こうやって肉眼で彼女の姿を見る事の出来る王族も少ない。
私の弟のエミリオは、ウンディーネの姿どころか声を聴く事すら出来ないらしい。
「で。聖女を召喚した、と?」
『うん!だからホナミを呼んだんだけど、別の子達が来ちゃってぇ』
今から20数年前、私の亡き母はウンディーネの力を借りて聖女召喚を試みた。
私の母ベルナデットは近年産まれた王族の中で、もっとも魔力に恵まれた女性だったと言う。
世間では失敗した事になっている聖女召喚だが、実は密かに成功していた。
ホナミと言うのは、その時召喚された聖女の名前である。
今までもこれからもこの国の歴史に記される事もないだろうが、ホナミは確かに闇の森の侵攻を止めて異世界に帰って行った。――…同時に、彼女は私の父の心まで盗んで行った。
「で、私の可愛い姫 の体はどうなっている?」
『だいじょぶじょぶ!向こうで死にかけてた子の魂がアミールのお姫様の中に入ってるだけだから!』
「……で、元々彼女の中に入っていた魂は?」
(まさか、彼女の肉体の中から弾き出したのか?)
最悪な結果を想像してしまい、思わず抜刀して剣先をウンディーネの喉元に突きつけると彼女の笑顔が引き攣った。
『だ、大丈夫だって!!女神様の特権で、ちょちょっと時を弄ってスノーホワイトが産まれる前に魂入れたから!だから安心して!?スノーホワイトの魂を弾き出したとか、一つの体の中に二つの魂が入っていて二重人格になっちゃったとかそういうのでもなくて、彼女は最近前世を思い出しただけ!アミールのお姫様は昔会った初恋のお姫様のままであってるから!!』
「…………。」
(まあ、それなら良いか…?)
ならば特に問題はない。
そう思い剣を鞘にしまう私を見てウンディーネが大きく胸を撫で下ろす。
『……プッツンすると何をするか判らない所は、本当にベルちん譲りねぇ』
(なるほどな)
スノーホワイトは再会してから、たまに男言葉になる事がある。
彼女の前世は男だったのだろう。
彼女と関係を結んだ時、そしてその後の彼女の激しい戸惑いや葛藤、そして私達の元から何度か逃走した理由がようやく理解出来た様な気がした。
彼女の中に男であった頃の記憶が戻ったのならそれは当然の反応であろう。
しかし今まで私にはそれが分からなかった。
分からなかったが故に、彼女の反応を訝し気に思っていた。
彼女が私達に惹かれているのは確かだ。それなのに彼女自身がその事実に尻込みしており、私達を受け入れる事に時折妙な抵抗を示すのだ。
もしや想い人でもいるのではないか?と勘繰ってみたが、その気配もない。
自分達で言うのも何だが、私もイルミも女性受けする容姿をしている。
始まりが始まりだったと言え、あそこまで女性に拒絶されるのは、私も、ーーそしてうちの宰相殿も産まれて初めてだったらしい。
いつの日か、彼女をベッドに繋いだままの状態でイルミと街まで買い物に行った時の会話を思い出す。
『しかしあそこまで嫌がられると逆に燃えますねぇ、じゃじゃ馬慣らしの様で』
『ふーん、……処女とは皆あの様な反応ではないのかい?』
『処女でも性の知識がないお子様でも、あそこまで拒絶された事はありませんよ。――…あのお姫様、結局最後まで私達をどちらか選びませんでしたからねぇ』
『あの根性は見上げたものだね』
私は自分のこの目に眩しい髪色や、太陽に弱い色素の薄い瞳の色があまり好きではないのだが、そんな私の容姿は女性からすると好ましい物らしい。
学生時代は、女性とは目が合った後軽く会釈すれば向こうからモーションをかけてくる生き物だと思っていた位だ。
なのでなるべく女性とは目を合わせない様に、なるべく目立たない様に、――そして裏で暗躍しやすくする為、なるべく無能に見える様にして過ごしていた。
しかし、それでも女性からのアプローチが途絶える事はなかった。
普通の年頃の男ならばそれ幸いと適度に遊ぶのだろうが、私は面倒臭い家に産まれた上に、面倒な女神様の血を継いでいるので、初めて関係を結んだ女性とは生涯連れ添わないと本当の意味で人生が終了してしまう。
―――しかしスライムに襲われている彼女を見た瞬間、いつも女性に誘われる度に感じていた煩わしさや保身故の用心深さ、そして自分の人生計画の全てが吹き飛んだ。
あの時は単純に「今、スライム毒から彼女を中和して救うと言う栄誉を得る事が出来るのならば、死んでも良い」と思ったのだ。自分でも馬鹿だと思うが。
そのまま彼女を自分のものに出来る自信があったかと言えば嘘になる。
そしてその後、私の愛は何度も彼女に拒絶される事になる。
私が女性にあんなにも強く拒絶されたのは産まれて初めての事だった。
しかし口ではどんなに嫌がりながらも、一度体を開かせてしまえば最後、私の与える快楽に酔い痴れる彼女に胸が掻き乱された。
どんなに熱い夜を過ごしても、翌朝になれば赤の他人の様に空々しい態度を取られてしまうと、その場で服を脱がせて昨夜の事を思い出させてやりたくなった。
本人は無自覚の様だったが、彼女のそんな態度は私の胸に甘いトゲを突き刺すばかりか、薔薇の蔓で私の心を心ごとグルグルと絡め取り鷲掴みにしたのだ。
それはまるで上等な恋愛の駆け引きのテクニックを行使されて、振り回されている様な気分だった。
彼女を自分の物にしようと試行錯誤している間に、どんどんライバルは増えていく。
彼女に手を出すなと他の男達に言おうと思えばそれも出来たが、私はあえてそれをしなかった。
(さて、そろそろなのかな)
彼女はそろそろうちの宰相殿を攻略する頃合いだろう。
―――想像以上に記憶を取り戻したスノーホワイトは優秀だった。
最初本当にただの偶然だったのだ。
成り行きで彼女は私の部下達と関係を結ぶ。そして彼等を次々と虜にして行った。
今この家に住む男の全てが、彼女に首ったけだ。
イレギュラー要素は幾つかあったが、それでも計画には差障りはない。
カタン、
その時、玄関のドアが開いた。
皆を起こさない様に静かに帰宅した男女の姿に顔を上げる。
恐らく酔いつぶれたのだろう。
赤い顔をしたままぐったりとしたスノーホワイトを背負うイルミの姿に私は破顔した。
「おかえりイルミ、首尾はどうだい」
「上々ですがそれが何か」
私が起きて待っているであろう事を知っていたらしいイルミは、私が出迎えても特段驚いた様子を見せなかった。
どうやら彼は二人が家を出る前から私が盗み見していた事に気付いていたらしい。
イルミは私に背を向けるとそっけない口調で言う。
「例の件、乗せられてやりますよ」
―――やった。
ついにやったのだ、スノーホワイトは。
「それは助かるよ、イルミ」
「ただ、一言言わせて下さい」
「ん?」
内心してやったりと言った笑顔を浮かべる私を、無造作に振り返り彼は言った。
「あなたは鬼畜外道だ」
自他とも認める鬼畜宰相のその言葉に、思わず私は吹き出した。
****
「アミー様ぁ!!……困ったわ、近くにいないのかしら」
(イルミの言う通り、私は自分で思っているよりも冷酷な男のかもしれない)
半日前に崖の下に落ちた白雪姫 を無情に眺めながら、ふとそんな事を思った。
今日、私とスノーホワイトは森の野生のリンゴを採りに行った。
彼女が脚を滑らせて崖下に落ちた事に私はすぐに気が付いた。
崖下から助けを求める声に私は慌てて崖の淵に駆け付けたのだが、――ふと出来心が芽生えたのだ。
私が助けなければ彼女はどうするのだろうか、と。
特に怪我をした様子もなかったので、私はそのまま崖の上から彼女を観察する事にした。
彼女が泣いたり、彼女が落ちた岩場が崩れたり、そんな差し迫った危険が訪れればすぐに助けに行こうと思ったがそれはなかった。
(意外だ)
思ったよりも胆が据わっているのかもしれない。
そう思いながら、崖の上から彼女の事を観察する事数十分。私が今まで抱いていた彼女の印象がガラリと変わる事になる。
それまでは私のスノーホワイトの印象と言えば、非力でか弱い姫君だった。
継母に虐められてもただ涙を流して、助けが来る日を待ち続ける事しか出来ない無力でか弱い姫君。
そんな彼女を救い出し、城に連れて帰って幸せにするのが自分の役目なのだと思っていた。
どこの世界でもいつの時代でも、囚われの美しい姫君を助け出すのは王子の役目と相場は決まっている。
しかし今。窮地に陥っている彼女は、私が助けに行かずとも全く平気そうなのだ。
一人で崖が登れないか確かめてみたり、逆に下れないか崖下を覗いてみたり、アグレッシブな様子を見せる。
私の想像を裏切り、彼女はただ泣いて助けを待つ事しか出来ない姫君ではなかった。
(まあ、男として生きた人生の記憶もあるのなら、この位は当然か)
見た目は儚げな美少女であると言う事実は置いておいて。男としての人生経験と記憶があるのならば、今ここで泣いて助けを待つ事しか出来ないのは逆にどうなのだろうと思う。
「よし。誰も見てないな、見てないんだよな!?『白雪姫と7人の恋人』の主題歌歌っちゃうぞー!!」
顎の下に手を当ててそんな事を考えていると、いつの間にか崖下の彼女は一人で歌って踊り出した。
そんな能天気な彼女の様子に思わず吹き出してしまった。
ところで歌の合間合間に度々ある少しキザな決め台詞の様な物に聞き覚えがあるのだが、これは私の気のせいだろうか?
1番を歌い終えた所で、彼女は今自分がいる岩場の向こうに洞窟がある事に気付いたらしい。
「あら、洞窟だわ」
洞窟がある岩場と、今彼女がいる岩場は続いている事は続いているのだが、崖の急斜面にあるその道はとても細長い。
彼女は躊躇いなく穿いていたパンプスを脱ぎ捨てて裸足になると、崖の壁面伝いに隣の岩場へを渡り出したのだ。
(驚いたな、これは)
落ちたらまず助からない。
そんな高さの細長い道を、躊躇いなく渡るとは流石の私も想像していなかった。
男でも大抵の者は怯む高さと、危うい道だ。
「きゃっ!?」
ガララ…!
途中で頼りない足場が崩れ落ちる。
惜しい。もう少しで渡り切れる所であったのに、道がなくなってしまった。
「……せーのっ!!」
どうするのだろう。
引き返すのだろうか?と様子を見ていると、なんと彼女は勢いをつけて高く跳躍したのだ。
「あぶな……!」
思わず制止の声が上がる。
―――しかし、
パラパラ…
「おお、おっかねー……」
無事岩場へと着地した彼女は、自分の足元の小石が遥か下に落ちて行くのを見て、額の汗を拭いながら大きく息を付いた。
やるじゃないかと言う気持ち半分、あまりハラハラさせてくれるなと言う気持ち半分で胸を撫で下ろす。
「さぁてと、洞窟の中には何があるのかしら」
そう一人ごちながらスノーホワイトは洞窟の中に消えて行った。
このままでは洞窟内で何かあった時に彼女を守り切れない。
私もそろそろ下に降りる準備をするかと思ったが、それは不要だった。
「つまらないの、行き止まりだわ…」
そう言って彼女はすぐに洞窟の中から出て来たからだ。
洞窟から出て来たスノーホワイトは空を見上げた。
夕焼けに染まった空を見ながら、彼女は大きく伸びをすると欠伸を噛み殺した。
どうやら彼女は眠くなって来たらしい。
「寝ちゃおっかな」
そのまま岩にもたれ掛ると、すやすや寝息を立て始めた彼女に私はまたしても驚かされた。
(怖くないのだろうか?)
夜の森の危険性は彼女も知らないはずがない。
しかし日が暮れたと言うのに、彼女は怖がる素振りも見せないのだ。
(いい加減こんな馬鹿はやめて、そろそろ迎えにいくべきだ…)
頭はそう言っているのだが、まだ彼女の様子を見てみたいと言う気持ちの方が勝った。
再会してから確かな予感があったのだ。
―――彼女が私の理想を超える予感。
「あなたの事を試させて貰うよ、スノーホワイト」
夜になった。
「ふぁ~…」
狼の遠吠えに彼女は目を覚ます。
大きく伸びをする彼女の頭上には蒼い満月が輝いている。
「あれ、もう夜なの?」
―――その時、
ドーン……
遠くで太鼓の音が聞こえる。
(何だ?)
私だけでなくスノーホワイトも異変に気づいたらしく、太鼓の音が聞こえた方を振り返った。
音は下の森の方からからだった。
太鼓の音だけでない。同時に赤い無数の光もこちらに物凄いスピードで近付いて来る。
ドーン、ドンドンドン…!!
「若いおなごはいねぇがぁー、生でハメさせてくれるおなごはいねぇがぁー」
ぬらりと森の木々の上から顔を出した男達の集団にスノーホワイトの体は固まる。
赤い光の正体は、彼らの持つ紙で作られた灯篭だった。
赤い鬼の面に大ぶりの刃物。ケラミノを身に纏い、刃物を持たない方の手には酒瓶や小太鼓などを持つ男達が現れた。
(ナマハメ……!!)
ナマハメとは女性に縁のないまま生涯を終えた、性欲過多の男達が悪霊になって甦ったと言われている東方列島諸国の悪鬼の一種である。
最近西の大陸に渡って来た魔性の外来種は、何も王城 にのさばっている妖狐だけではない。
毒の海が広がり、東の大陸からの外来種は随分と増えた。
「若いおなごがいたぞー、生でハメさせてくれるおなごはいねぇのがー!!」
「きっと悪いおなごだぞー。生でハメちゃっても良いおなごだぞー!!」
「きゃあああああああ!!」
スノーホワイトの若い女の匂いに誘われてきたのだろう。
羽もないのに、森の木の上からぼうっと崖の上まで飛び込んで来たナマハメ達に流石の私ももうお遊びは止める事にした。
(仕方ない)
スノーホワイトの周りを囲み、怪しい踊りを始めたナマハメに私は崖の上から飛び降りる。
ザシュッ!!
「無事かい、私の愛しの姫君 」
「アミー様!!」
スノーホワイトに襲い掛かろうとしていたナマハメの頭蓋骨の上に着地した後、何体か斬り捨て様に彼女を振り返る。
どうやら無事の様である。
「男持ちだど!?悪いおなごだー!悪いおなごだー!!」
「生でハメちまえー!!」
私の出現により、何故かナマハメ達の怒りに火がついてしまったらしい。
ナマハメ達の鬼の面の中の瞳が赤く滾り、襲いかかって来た。
「来い、人の業により産まれし悪鬼ども。――…せめてもの情けだ。その執念、ここで叩き斬ってやろう」
****
「アミー様、彼等は一体…?」
「ん?ああ…」
ナマハメは中級妖魔に属する悪鬼だが、私の持つ国宝の神剣があればそう怖い物でもない。
魔族や上級妖魔戦になれば流石の私でも少々気を引き締めるが、ナマハメ程度ならば雑魚でしかない。
「怖かったね、大丈夫かい」
ナマハメの出現に驚きを隠せない様子で棒の様に立ち尽くすスノーホワイトを抱きしめると、彼女は小さく頷いた。
半日ぶりに抱きしめる彼女の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、その軟らかな指触りの髪の感触を楽しみながら頭を撫でると、彼女ももう慣れたもので再会した当初の様な抵抗も拒絶もなかった。
そんな些細な事に幸せを感じながら、彼女の問いに答える。
「彼等はナマハメと言ってね、女性と縁がないまま生涯を終え、成仏出来なかった男達のなれの果ての姿だと言われている」
「え…?」
地に伏し涙するナマハメ達を見つめるスノーホワイトの目が揺れた。
「わがいおなごに、ナマでハメてみたがった……うううう…っ」
「ううう、一度でいいから、わがいおなごとおめごしてぇよぉ……」
それにしても酷い断末魔だ。
「もう時間も遅い、そろそろ帰ろうか!」
彼等の断末魔をあまり彼女の耳には入れたくないと思った私は、やや大きめの声を出して彼女の肩を抱いたまま方向転換をする。
しかしスノーホワイトは後ろ髪を引かれた様子でナマハメ達の方をずっと見つめている。
「あの、アミーさま、……彼等はどうなるのですか?」
「さあ、私にはなんとも。一説では女性と関係を持つ事に成功したら成仏すると言われているが、あなたがあんな悍ましい悪鬼どもに同情してやる事はない」
「…………。」
「どうしたの、姫 」
手を引こうとするが、何故か彼女は微動だとせずナマハメ達を見つめている。
―――その時、頭上から月星の光が消え失せた。
慌てて上空を見上げ、息を飲む。
(まずい……!!)
黒いプラズマを纏わらせた、その丸い巨大な闇の正体は――”リリスの夜”。
「”リリスの夜”!……走るよ、スノーホワイト!!」
「え!?」
近付いてきた災厄の気配に、私は彼女の腕を引いて狭い崖内を走り出す。
(私とした事が、ついつい遊び過ぎてしまったようだな)
夜の森は何が起こるか判らない場所だが、それでも青の月の夜に”リリスの夜”と遭遇した情報は聞かない。
(ついてない)
眉間に皺を寄せながら、横目で災厄の位置を確認する。
崖の斜面に辿り付くと私は彼女を背負い、そのまま崖を登り始めた。
「シュガー!私にしっかり捕まっているんだよ」
「アミーさま、あれは!?」
「リリスの夜。人の世で生きる者達に課せられた災厄の一つであり、この森で一番危険だと言われている永遠の夜だ」
私は彼女に”リリスの夜”の説明をしながら崖を登る。
スノーホワイトは継母から情報を制限されて育ったらしく、知識に偏りが多い。
この様にこの世の常識とされる事でも知らない事が多々あった。
”リリスの夜”とは、この森が闇の森と呼ばれる事になった所以でもある。
魔獣達は”リリスの夜”から産まれる。
実際”リリスの夜”から魔物が産まれた瞬間を目撃した人間の記録はいくつも残されている。
リリスとは古の時代、楽園に住んでいた”はじまりの人”の一人であり、最初の女と言われている。
リリスは最初の男の妻となったが、彼女は彼と仲違いをして自ら楽園を去った。
その後、神の使いに「楽園戻らなければ楽園に残した子供達を殺す」と脅されたリリスは、彼等の命と自分の運命を儚んで自害する。
リリスが自害した後、楽園の外には夜と言う概念が産まれた。
リリスの怨念が夜と言う名の闇になったと言われている。
伝説では男と神に復讐を誓ったリリスが、魔物を産みだす”リリスの夜”となったと言われているが、実際の所は誰にも分からない。
ただ確かな事が二つある。
一つ、”リリスの夜”が魔獣を産みだす災厄であると言う事。
一つ、リリスの闇に飲まれた者は、もう二度とこちらに戻って来れないと言う事。
”リリスの夜”は魔境の一つである”死の砂漠”か、今私達が滞在しているここ、ミュルクヴィズの森での目撃例が多い。
それゆえにこの森は闇の森と呼ばれている。
日が沈むとミュルクヴィズでは”夜の魔女”に会うと言われているが、しかし実際この森でリリスに遭遇するのは私も初めてだ。
「うわああああああああああ!!」
「わがいおなごー!!わがいおなごー!!」
逃げ遅れたナマハメ達がリリスの闇に飲み込まれて行く。
「ナマハメ達が……!!アミー様、リリスに飲まれた人達はどうなるのですか!?」
「……判らない。”リリスの夜”に飲みこまれた後、帰って来た者達はいないんだ」
「え?」
「……伝説ではこう言われている。
リリスに触れると死の扉が開く。
彼女に触れてはならない。
彼女に触れたら最後、冥界へと連れ去られる。
リリスに飲まれた者は、誰一人として戻らない。
彼女に取り憑かれた者は、常夜の闇へと落ちて行く」
パラパラ…、
掴んだ岩が崩れて右肩が落ち顔が歪む。
一人ならともかく、彼女を背負った状態で、下方から膨れ上がる闇から逃げる様に猛スピードで登るのはやや骨が折れた。
もう少し上にある、頑丈そうな岩に手を伸ばしたその時の事だった。
「…………私、行きます」
背中からいつもよりも低い、覚悟を決めた彼女の声がして、私は自分の耳を疑った。
「……君は、何を言っているんだ?」
「それに背中の私を下せば、アミ―様はリリスから逃げられるわ」
(本当に、この期に及んでこの娘 は何を言っている……?)
またしても自分の耳を疑う。
思わず背負った彼女の顔を振り返ると、スノーホワイトは笑っていた。
「自分でも馬鹿だと思います。――…でも、私はナマハメ達の事を放っておけないんです」
「スノーホワイト」
「アミー様、今も昔もあなたは完璧な王子様よ。あなた程完璧な男性を私は知りません。あなたは女の子なら誰もが夢に見る理想の王子様です。――…恐らくあなたの様な非の付け所のない男性には、私やナマハメの気持ちは一生分からない」
自嘲気味に笑いながら、彼女はリリスに飲まれて行ったナマハメ達の方を見つめる。
(これは…、)
誰が何を言っているのか、すぐに分かった。
―――これはスノーホワイトの言ではない。前世の男の人格の方の言だ。
「なんで俺がこんな美少女に転生したのか、今まで全く分からなかったけど。……案外、前世のご同類を救う為だったりすんのかもなぁ」
苦笑混じりにぼやいた後、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「アミー様、私行きます。今まで本当にありがとうございました」
―――その笑顔に、不覚にも私は見惚れてしまった。
屈託ない、何の翳りもない眩しいその笑顔は、背後から迫る闇を吹き飛ばしてしまいそうな位に晴れやかで。
ドン!
次の瞬間、子供をなだめる様な優しい目で微笑みながら、彼女は私の背を押した。
「スノーホワイト!!」
背中からベッドの上に倒れ込む様に、彼女の体はゆっくりと”リリスの夜”へと落ちて行く。
慌てて手を伸ばすが、彼女の指先を掠めただけだった。
宙で指先が触れ合った瞬間、彼女は笑った。
花が咲くように綻んだ唇が「さよなら、アミー様」と動くのを見て、未だかつて感じた事のない、心の中を掻きむしられるような激しい焦燥に襲われる。
(今までありがとう……さよならだと…?)
―――これではまるで別れの挨拶だ。
いや、彼女はそのつもりだったのだと気付いた瞬間、ゾッとした。
彼女の姿はすぐにリリスに飲まれて私の視界から消えてなくなってしまった。
もう、単身崖を登る気は失せていた。
(――――……そんな勝手、絶対に許さない…。)
「……幽魔、彼女に付き合うぞ」
私の低く押し殺した声に、剣の柄部分にある”幽魔の牢獄”が私に逆らう様に赤く光る。
「何を恐れている。時代から言えば、お前の方が夜の魔女よりもずっと古い、いにしえの獣だろう」
私も彼女の続き、”リリスの夜”の中に飛び込んだ。
闇に飲まれる瞬間、ふと思った。
(案外、今度は私が彼女に試されているのかもしれないな)
そうだ。確かおとぎ話の王子様とやらは大抵どれもこれも、ここで姫を颯爽と救い出すのが定番なのだ。
しかしその悪役が三下でなく、この世の三大災厄と言われている”リリスの夜”とはやってくれる。――…流石は私の選んだ女性と言ったところか。
―――だが、これが彼女が自身の伴侶を選ぶ為に私に与えた試練なのだとしたら喜んで乗ってやろう。
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