恋人4、Doc
「喉でも渇きましたか?何かお茶でもお煎れしましょうか?」
「そうですね、では何か適当にお願いします」
「はい!」
特段喉など渇いていなかったが、何となくここに居座る理由の様な物が欲しかった。
キッチンテーブルにある椅子に腰を降ろすと、食器棚からガチャガチャとティーセットを取り出す彼女の後姿を見守る。
「貴女はこんな夜更けに一体何を作っていたのですか?」
「私は明日の朝食の仕込みをしていたんです。今日のおやつに焼いたアップルパイのパイ生地が少し余ってしまったので、明日の朝はカボチャのキッシュでも焼こうかなって」
「…………。」
(なんともまあ、所帯染みたお姫様だ)
小国言えどもとても一国の姫君のする事だとは思えない。
しかし嫌悪感はなかった。今の現状、その質素倹約な行いも美徳として映る。
結婚すればこの女はさぞかし良き妻、良き母となるのだろう。……とは言ってもその清貧さも働きぶりも家事能力も、貴族 の妻としても、一国の王女としても無用の長物でしかないのだが。
「どうかなさいましたか?」
「いえ」
私の視線に気付いたらしい彼女はキョトンと目を瞬かせる。
(他の女と比べて、この女の何がそんなに優れていると言うのだ?)
改めて考えてみる。
彼女程ではないが、美しい女など腐る程存在する。
目の前の少女は美しいがそれを鼻に掛けている所がない。もしかしたら自分は彼女のそんな所を好ましいと思っているのかもしれない。
美しい女とはどんなに大人しく控えめに見えても、口ではどんなに謙遜して謙虚に振舞ってみせても、どれも自分の美しさをしかと理解している。それ故に男にそれ相応の扱いを求め、それが自分の期待値を下回れば一変して不機嫌になるものだ。
美人と不器量な女とでは、生まれ落ちた瞬間から著しい待遇の差がある。
もしそんな事はないと言うのであれば、美人の横に世にも醜い醜女を並べ、二人を同列に扱ってみれば良い。どれもすぐに化けの皮が剥れる。普段過剰な謙遜をしている女ほど激しく憤る。
知的に問題がある女は別として、美しい女達は美と言う自身の財産がいつまでも自分の手元にある訳ではない事を知っている。若さも美も自分の長い人生の中で、ほんの短い期間だけ与えられた財産だと言う事を熟知している。だからこそその間、自分の美貌をフル活用する。
しかしこの少女はどこか妙なのだ。
まるで自分が美しい事を知らない様な、自分の美に戸惑っている様な、自分の美貌を持て余している様な、その美しい容姿にそぐわない妙にちぐはぐした印象を受ける事がある。
劣悪な環境で育ち自尊心が育たなかった頭の軽い美女に、これに似た現象が見られる事があるにはあるのだが、彼女にはその手の女にありがちな卑屈な雰囲気はない。生育環境はともかくスノーホワイトは頭の回転が悪い訳ではない。むしろ地頭はかなり良い方だろう。
その卦体さが与えるコミカルな印象もまた、自分は面白いと思っているのかもしれない。
(他に何かあるとすれば、リンゲインの正統なる王女と言う血統か……)
滅び行く運命の小国だとしても、この少女には一国の王女と言う他の女にはないブランド性がある。
リンゲイン独立共和国の建国者、ロードルト・リンゲインと言えばこの近隣諸国では未だ英雄として持て囃されており、民達の間では今も尚愛され続けている伝説の人物だ。
彼を主役とした伝承話 や戯曲は多い。
この辺りの近隣諸国の子供達が、寝る前に読み聞かせされるのお伽噺の代表的な物として、金色の竜を従えたリンゲインの英雄神話が挙げられる。
リンゲインの伝説に感銘を受けた子供達は、棒を振り回して教皇国の兵を追い返す英雄リンゲインのごっこ遊びをして育つ。
もしかしたらあの太陽王の末裔と言う血統の正統性に惹かれていると言う事は、多少なりともあるのかもしれない。
―――平素であれば、彼女を自身のコレクションに加えるのにある程度の労力や財力を割いてもお釣りが来るだけの価値はある。
自分が伯爵家と言う微妙な家に産まれた事もあり、私はいずれ結婚する時はどこかの国の王族とすると心に決めていた。
そして私の代か、遅くても次の代のヴィスカルディ家の当主が一国の王となる。
それがヴィスカルディの長男に課せられた役割であり、代々我が家の当主に受け継がれてきた野望だ。その為に私の父も祖父もそのまた祖父も、己の人生を懸けて着々と礎石を築いて来てくれたのだ。――そしてその王位 は限りなく目前にある。
私には婚約者がいる。
エスメラルダ・アリソン・アン・アナナ・ブランシェ・フォン・リゲルブルク。――アミール王子の腹違いの妹であり、リゲルブルクの第一王女だ。
私にとって小国の王女であるスノーホワイトよりも、エスメラルダの方が破格級に利用価値がある。
パブリックスクール時代、アミール王子の熱烈なスカウトに乗った条件も彼女だ。
パブリックスクール卒業後、父の後釜を就いで私がリゲルブルク最年少の宰相となる事は既に決定していた。
しかしそれだけでは足りない。父の代と私の代とで、ヴィスカルディ家の立場は何ら変わらない。
そこで私と第一王女との結婚の約束である。
私の出した条件に二つ返事で頷いたアミール王子の仕事は早かった。
翌日には私とエスメラルダ姫との会食の席がお膳立てされており、その後は全てがとんとん拍子に進んだ。
エスメラルダは私の事を知っていた。
何でも父の手伝いで城に出入りしている私を見て、一目惚れしていたとか何とか。向こうからすれば願ったり叶ったりの申し出だったらしく、彼女が18になったら私達は結婚をする事になっていた。
そしてずっとルジェルジェノサメール城で中立の立場に立っていた私は、アミール王子派になった。
しかし協力するのはアミール王子が王位に就くまでで、その後の事はどうなるかは分らないと言う事は彼にも話していた。
エスメラルダと結婚さえしてしまえば、私は晴れてリゲルブルクの王族の一員となる。
「あのイルミが私の義弟になるんだと思うと、何だか感慨深いねぇ」と彼は苦笑していたが、こちらからしてみても苦笑を禁じえない事態である事は確かだ。
アミール王子が真に使える男ならばそのまま彼に仕え、彼の忠臣として尽くして一生を終える。そして私も父や祖父がして来た様に、次の世代がこの国の王となる基盤を手堅く固める。
アミール王子が使えなければあっさり寝首を掻き、私が王位を捥ぎ取るとも告げていた。
そして彼はそれを二つ返事で承諾した。
(それとも、やはり顔だろうか?)
エスメラルダは白雪姫 と違って、お世辞にも美しいとは言えないタイプの女である。
しかしスノーホワイトが今どんなに美しかろうとも、数十年もすればエスメラルダの容姿と大差もなくなるはずだ。
若さや美などと言った物には刹那的な価値しかない。
この先暴落して行く資産に固執するのも馬鹿らしい。父の言う通り、女は若く美しい期間だけリースするに限る。結婚はまた別の話だ。
(それともあのアミール王子や、他の男達も惹かれているからだろうか?)
しかしその手のトロフィーワイフ的な物の真骨頂とは、優秀で手強いライバル達を蹴落として行く過程に得られる興奮と、トロフィーを掴んで表彰台に上がり勝者となった瞬間に感じる痛快さである。トロフィーを掴む事が出来なかった男達の羨望の眼差しを一身に集め、悔しくて堪らないと言った面々を見渡し、優越感に浸る事に意義がある。
トロフィーそのものはどんなに輝いて見えても、実際手にしてしまえばつまらない置物でしかない。屋敷に飾る埃を被った置物がまた一つ増えるだけだ。
苦労して手に入れればその分愛着は沸くだろうが、そんな物長くても2、3年だろう。
近い将来、リンゲインは滅びる運命にある。
今、私がスノーホワイトを手に入れたとして、彼女は私にとって負の遺産にしかならない。
―――教皇国カルヴァリオが力を取り戻しつつある現状、リンゲイン独立共和国はリゲルブルクと統合するか、教皇国の従属国に戻るか二つに一つの選択肢しかない。
西の大陸には今現在三つの勢力を誇る強国があり、この三国の均衡関係がとても複雑な事になっている。
一つは我等がリゲルブルク。
一つはアドビス神聖国。
一つはローズヴェルド公国。
最後の一つ、ローズヴェルド公国もスノーホワイトのリンゲイン独立共和国と同じく、1890年に教皇国から独立自治権を得た国家である。
”カルカレッソの悲劇”により教皇国が衰退した後、ローズヴェルドは教皇国から三大強国の地位を奪い、西の三大大国にまで成長した。
しかしローズヴェルドは国際社会において、色々とまずい国なのだ。
ローズヴェルドは影で「男尊女卑の国」「男の楽園、女の牢獄」と呼ばれている。
先代国王ワールシュタットの時代から、ローズヴェルドでは女性の権利が剥奪された。何でもワールシュタットの母親が支配欲が強い女で、虐待じみた教育を受けた彼は生涯女嫌いだったと言う。
今現在もローズヴェルドには女性の人権はなく、女性の扱いは家畜並みだと言う話だ。
女性の手足を切断しだるまと言う性具にする事が主流のローズヴェルドでは、五体満足のまま成人する女性は少なく、女性の平均寿命もとても短い。
国際社会においての反感もとても大きい国だ。
そんなローズヴェルドが何故ここまで発展したかと言うと、悪趣味な金持ち連中の移民の存在である。
ローズヴェルドは金さえ払えば国籍が買う事が出来る。
つまり、国籍さえ手に入れば、現地で現地の人権を持たぬ女達を好き勝手にする事が出来るのだ。
その手の嗜虐趣味の男は存外多いらしく、皮肉な事に彼等が国籍欲しさにローズヴェルドに支払った金と、その後納め続ける税金がローズヴェルドの国力を伸ばす要因となった。
そしてそんな男達が、各国の政界にも多々存在したと言う酷いオチまであった。
しかし、それは何も政界だけの話ではない。退職後は年金を持って、ローズヴェルドに移住する”善良な一般市民”も多い。
彼等の話によるとローズヴェルドの男よりも自分達は優しいので、現地の女達にとてもモテるのだとか。
しかしローズヴェルドが男の楽園だとしても、女からすれば地獄でしかない。
毎年ローズヴェルドから亡命しようとする女性の数は、ローズヴェルドに移民する男性の数を遥かに上回る。
そんな訳で近年ローズヴェルドとの国境付近の村々では、数多の女性難民達で溢れて、酷い有様になっているらしい。
周辺諸国がローズヴェルドの難民の保護や救助をしようとすれば、税金を使う事になる。しかしどこもそんなに余裕のある国ばかりではない。
特に北国はリンゲインではないが、どこも毎年冬越えするので精一杯の国ばかりなのだ。
ローズヴェルドに難民問題について苦言を申し立てれば「処刑するので、どうぞこちらに引き渡してくれ」と言われるだけだ。
引き渡せば難民達がどんな目に遇わされるかも判っているので、むざむざ追い返す事も出来ない。
しかし自国に受け入れようとも、教育を受ける機会に恵まれず、文字の読み書きもろくに出来ない五体不満足の難民達に出来る仕事はとても少ない。
仕事に恵まれず国の保護も行き届かないとなると、当然難民女性達は食うに困る事となり、現地で盗みを働くか自分の肉体を売って小金を稼ぐしかなくなる。
よって国境付近の村々の治安は悪化し、難民に対しての国民の反発感情は年々大きくなって行った。
そんなこんなでローズヴェルドの近隣諸国は、難民問題で頭を悩ませているのが現状である。
リゲルブルクも女神崇拝のお国柄、ローズヴェルドが力を伸ばしている事を遺憾に思っている国の一つではあるのだが、我が国よりもよりローズヴェルドの横暴に憤っている国が二国ある。
宗教色の強い、教皇国カルヴァリオとアドビス神聖国である。
現在力学関係は逆転しているが、教皇国はアドビス神聖国の宗主国に当たる。
アドビス神聖国はリゲルブルクの遥か南方に位置する、とても大きく豊かな国である。
広い国土は緑も多く平坦で、大規模な農耕に適した恵まれた地形であり、気候にも恵まれている。食料自給率と食料貯蔵率が高い国は純粋に強い。長期の戦となっても有利だ。
リゲルやリンゲインと違って厳冬地帯ではないと言うのもまたアドビスの強みだろう。冬になれば向こうも雪は降るが、粉雪が多少舞う程度で毎年凍死や食糧難に怯える民もいない。
貧しい者達に手を差し伸べる事が美徳とされる宗教観のお国柄、アドビス神聖国は貧困国家の支援や難民の救護に力を入れて来た。
アドビスが支援している貧困国家は、ローズヴェルドの国境境に多数存在する。
つまりアドビス神聖国は援助しても援助しても、ローズヴェルドから増え続ける難民のせいで潰れかけている貧困国家達に頭を悩ませているのだ。
教皇国は教皇国で、自国から独立したローズヴェルドとリンゲインを取り戻したいと思っている。そして教皇国の最終的な目的は世界統一だ。
ローズヴェルドの独立自治権の奪還。――ここでこのニ国の利害は一致している。
世界統一に向けての第一の布石として、復興後に教皇国が手始めに取り戻そうとするのは、大国に成長したローズヴェルドではなく、断然落としやすいスノーホワイトのリンゲインになる。
我が国としてはローズヴェルドの国風にも国策にも思う所はあれども、教皇国がローズヴェルドを取り戻す事だけは絶対に避けなければならない。
と言うのも地理的な意味でも、国の資源や水源的な意味でも、教皇国がローズヴェルドを取り戻せば、次なる侵略の刃はリゲルブルクに向けられる事となるからだ。
だからこそ我が国は教皇国に第一に狙われるであろうリンゲイン独立共和国を長年蛮族どもから保護し、経済援助をして来たと言う長い歴史がある。
毎年冬越えがやっとの極貧国 を、見返りも求めず援助し続けるのは当然マイナス面も大きかったが、それでも勝手に潰れてしまわれるよりはずっと良かった。リンゲインに国の形を保って貰って居た方がこちらとしては旨味があるのだ。
教皇国の矢面となる国は一つでも多い方が良い。
つまりスノーホワイトのリンゲイン独立共和国とは、我が国にとって皇教国との間にある緩衝材であり、自国の前面に配置している盾の様な存在でもあった。
リンゲインが教皇国に侵略されれば「友好国のリンゲイン独立共和国が、皇教国から攻撃された」と言う、表立って戦争をする正当な理由も産まれる。
国際社会の目もあるので、その手の大義名分があった方がこちらからしても色々やりやすい。
しかしそれだけではとてもではないが、万全の状態とは言えない。
なので近年、我が国ではアドビス神聖国とローズヴェルド公国との間に休戦協定と共に友好条約を結び、向こうの王侯貴族や要人達との縁談を結ぶ事を推奨して来た。
私の家もその一環だ。
私の母はアドビス王家のダグレード公爵家の出で、父方の祖父はローズヴェルドのリヒテンシュタイン侯爵家から来ている。
この三国間では密やかに交換留学生制度も始まった。
私もそれでアドビスに2年間留学したし、あの坊やも短期留学に行っている。
国が推奨している事もあり試験にパスすれば、まとまった額の支援金が毎月国から下りて、税金の免除まである。
我が家の様に毎年国に支払う税金が大きい家の場合、後者による利点の方が大きい。
あの坊やがうちにやってきた時、実は私が留学した事による税金免除期間が切れる寸前だった。
そのタイミングで魔力を持つ、優秀な坊やうちに転がり込んで来たので父は狂喜乱舞した。
あの坊やに我が家の姓を与え短期でも良いので留学に行かせる。
そうするとまた我が家の税金が数年間免除される事となる。
その免除額は坊やの留学費用を差し引いても大きい。更に国から支払われる支援金まで付いて来る。
そして父の様に国の中枢にいる者としては、息子を二人友好国に留学させたと言う事実が、政治的に活用出来ると言う旨味まであった。
話を戻そう。
以前アドビス神聖国はカルヴァリオに敗戦した時に、国宝の”バンジャリデアの宝剣”と”ピデアンの盾”と言う国宝を略奪された。それによりアドビスはカルヴァリオの属国になったと言う歴史的背景がある。
アドビス神聖国は形式的にはカルヴァリオから独立しているが、教皇国の意向には逆らえない。つまり巨額の資金要請や参戦要請も断る事が出来ない。アドビスはいつかは奪われた国宝と共に、自国の真の自治権を取り戻したいと思ってる。
ローズヴェルドもローズヴェルドで、自国に侵略の手を伸ばそうとしている教皇国を脅威に感じている。
しかし今、ローズヴェルドが教皇国に戦争をふっかければ、教皇国だけではない、国際社会と共にかの国の従属国であるアドビス神聖国をも敵に回す。
ローズヴェルド公国は確かに強国だが、アドビス・カルヴァリオの二国と正面からやり合える戦力はない。
ローズヴェルドからすれば、アドビスが支援している極貧国家達にぐるりと国境を囲まれているのも痛い。アドビスに支援を受けている貧困国家達は、戦争となれば恩義のあるアドビスに加担しない理由はない。
よって今、ローズヴェルドは徐々に復興していく教皇国を歯切りしながら見守っている様な状態である。
勿論ローズヴェルドも幾つか打開案は練っている。――その一つがリゲルブルクとアドビス神聖国の同盟強化である。
内心宗主国を面白く思っていないアドビス神聖国と、我が国と同じく皇教国を脅威に思っているローズヴェルドの三国が友好関係を築き、同盟を結ぶ。
こうして我が国も裏で着々と教皇国対策の地盤を固めて来た。
カルヴァリオの現皇帝ミカエラには私も何度か会った事があったが、あの男はまずい。血の気が多く、精力的で上昇志向の強い男だ。
何かの催し物で「世界地図を見る度に、地図の全てが我が国の領土でない事が慙愧に堪えない」と真顔で言っているのを直に聞いた事もある。――…そして、大口を叩くだけでなく、そこそこ使える頭と行動力まで持ち合わせている。
ミカエラは宗主国の強みで毎年復興資金を名目に、渋るアドビス神聖国から着々と巨額の金を吐き出させ、自国の軍事力の増強に力を入れている。
―――私の計算ではそろそろその時は来るのだ。
なので本来、私もアミール王子も――当然陛下も、ホナミなどと言う馬鹿女に構っている暇などない。
しかもあの馬鹿女はこのタイミングで「来年の夏のバカンスは海がいいわ。遊覧船に乗りたいのです。だから海沿いにあるリンゲインには我が国のリゾート地になっていただきましょう」などと馬鹿気た事を言い出し、武具を買い集め、兵まで募りだした。
ホナミのその愚行に眩暈がしたのは、私だけではない。
事実、大臣のウーヴェなど、何人かの重臣は吐血し倒れストレスで入院した。
その手の事は、本来ならば時間をかけて少しずつやらなければいけない事なのだ。
敵国や微妙な関係の国家、そして周辺諸国に怪しまれない様、不信感や脅威を抱かせない様に、慎重にやらなければならない。
しかしあの馬鹿が一気に軍事増強に回す予算を増やしてしまったせいで、我が国は教皇国のミカエラの不信を買い、彼の戦意を著しく刺激してしまった。
もう阿呆かと。
お前は阿呆かと。
あの馬鹿のせいで、戦いの火蓋が切られる時期が数年早まってしまった。更に教皇国の刃の矛先がローズヴェルドから我が国に向けられてしまったのだ。
あの馬鹿のせいで私の予定も随分狂わされた。あの阿呆さえいなければ、来たるべき教皇国戦ももっと万全な体勢で用意出来たはずなのだ。
少し位税金を使って豪遊する位なら私も大目にも見たが、こうなってしまえば、ホナミも彼女の操り人形の陛下も我が国の癌でしかない。
あの馬鹿の散財癖のせいで、最早教皇国戦に捻出する資金すら危うくなってしまった。
父の仇云々ではない。私がホナミを討とうとしているアミール王子に肩入れしている理由もそれであった。
―――あの馬鹿女のせいで、どんなに遅く見積もっても年内には確実にリンゲイン独立共和国はミカエラに攻めこまれるであろう。
それよりも早くあの女が自らリンゲインに攻め込んで、全てを台無しにしてしまうかもしれない。
ホナミが馬鹿をしてもしなくても、どちらにせよ戦火の火蓋を切れば、リンゲイン独立共和国は第一に生贄として捧げられる事が確定している。
私達がホナミから国を取り戻す事に成功したとしても、ミカエラを触発してしまった以上、事態はもう何も変わらないのだ。
リンゲインは戦炎に晒され、民は沢山殺されるだろう。
田畑は荒らされ、民家は燃やされるだろう。女子供は蹂躙され、八つ裂きにされるだろう。
そこに駆けつけた我が国が教皇国の軍を追い返す事が出来ればリンゲインは我が国の領土に。敗北すればリンゲインはカルヴァリオの属国に戻る。もう、そういう運命なのだ。
一国の王女である彼女に特段敬意も払わず横柄な態度で接してきたのは、ずっと我が国の肥しとしか思っていなかった小国の姫だからかもしれない。
私が産まれるずっと前から、最前線に配置している国の長の娘としか思っていないからだろう。
―――なのに何故。
今、こんなにも彼女に心が掻き乱されるのだろうか?
(自分の国が戦火に晒されたら、……この女は泣くだろうな)
嘆き悲しむ彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
胸がチクリと痛むのは何故だろう。
長年国政から遠ざけられていた彼女は、自国がそんな危機的状況に晒されている事も知らないはずだ。
知らないからこそ、こんな所で暢気に鼻歌混じりにキッシュも焼ける。
「イルミ様、いかがなされたのですか?」
―――出来心だった。
「外に散歩に行きませんか?」
「この時間にですか?」
深めのタルト型にパイ生地をつめていたスノーホワイトの手の動きが止まる。
「この時間だからです。今の時期、この森でこの時間にしか咲かないと言われている珍しい花が近くにあるのです。一緒に見に行きませんか?」
困惑気味な様子でスノーホワイトはこちらを振り返る。
即答しないのは、このままキッシュを焼いてしまいたいからだろう。
「貴女も私も、いつまでもここで暮らしているつもりはないはずだ」
誰もが避けている現実的な話を投げかけると、フォークでパイ生地の底面に穴を開けていた彼女の横顔が強張った。
「良い機会だとは思いませんか?恐らくここを出たら、もう一生見る機会はないでしょうから」
「そんなに珍しいお花なら、折角ですもの。皆さんを起こして、皆で果実酒とお夜食を持って行きませんか?」
「男心の解らないお姫様ですね、私は貴女と二人きりで見たいと言っているのです」
そう言って手を差し伸べると、彼女ははにかんだ笑みを浮かべながら私の手を取った。
「……こんな時間にデートのお誘いなんて、イルミ様はいけない方だわ。天国のお父様とお母様にバレたら私、きっと叱られてしまいます」
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